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斬馬剣禅「東西両京の大学4」

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山田対仁井田
(一)博士|岡田朝太郎《おかだあさたろう》かつて評して曰く、東京大学における山田は、その観驩けだし剛う毆のごとく、西京大学に おける仁井田《にいだ》は精悍《せいかん》実に荒岩《あらいわ》に似たりと。博士岡田はいわゆるこれ万能の人、硬は実にその評言.の適切露に服す.けだし 東京法科大学における博士雌壁麟は、その新進博士中におけるもっとも有為なるものの一人なり。彼やもと東京専門学校の出、明治二十六年その大学選科を卒業 するや、学士の称号を得んがために、明治二十七年高等中学校学力検定試験なるものを受く。けだし尋常中学、高等中学の全科目を受験及第せざるべからざるの 制規なり。・時に彼|未《いま》だ物理、化学を実験的に研究せざるがために、その尋常中学五年級の試験に至りて落第《らくだい》せり。依て彼|節《せつ》 を屈して錦城中《きんじよう》学に入学し、いわゆる市井《しせい》の腕白児《わんぱくじ》と伍《ご》して普通学を研究するもの一年、はなはだしきは彼等と 共に兵式体操を練習するに至りき。翌二十八年彼再び受験し、その試験七月六日より、十月十五日に至る前後三ヵ月の長期間に亘《わた》りしにかかわらず、克 《よ》くその難関を凌《しの》いで、法学士の月桂冠《げつけいかん》を得るに至りしは、実にこれ彼の学才の非凡にして、精力の超絶《ちようぜつ》せるに依 《よ》らずんばあらず。曩《さき》に吾人が彼をもって得意の裏面的運動をもって、わずかに及第し得たるものとなせしは、彼の二十七年の落第の時、彼の友人 二、三が頻《しき》りに試験委員中を運動したる事実の誤聞《こぶん》なりき。吾人は彼山田のことき、あたら俊才《しゆんさい》を誤謬《こびゆう》の伝聞 《でんぶん》の下《もと》に傷《きずつ》け終らんとせし疎忽《そこつ》を謝し、改めて読者に彼を天下の逸才《いつさい》として紹介し得ることを喜ぶ。
 けだし山田がもっともその学才を顕わしたるものを『民法第二条に関する意見』となす。彼は当時この問題が朝野論争《ちようやろんそう》の中心点たる時に あたり、かの開国論者に左袒《さたん》して、内外人権利の平等が世界の大勢《たいせい》なる所以《ゆえん》を論じ、これを立証するに万国の立法例をもって せり。この一文はもっとも開国論者の中堅なりし彼穂積陳重の意に叶《かな》い、爾来《じらい》彼穂積の腰巾着《こしぎんちやく》たるの縁因を結び、法典編 纂事業《ほうてんへんさんじぎよう》の補助者として、歌舞伎座《かぶきざ》における陪観者《ばいかんしや》として、細君の警護者《けいこしや》として、令 嬢令息の守役《もりやく》として、忠誠ほとんど到らざるなきに至れり。殊に彼が穂積の法典編纂事業を補助せし功績は、決して没すべからざるものあり。かの 法例改正案理由書なるものは、全く穂積の旨《むね》を受けて、彼が起草《きそう》したるものにして、これ一個の著作としても充分なる尊敬を値するものなり と伝う。かくの如くにして彼が東京専門学校の出なるにかかわらず、その普通学学力の検定を受けて法学士の称号を受けるや、その同輩《とうはい》の中におい て嶄然《ざんぜん》として頭角《とうかく》を抽《ぬ》ける、あたかもこれ両国《りようごく》が大阪力士より入って、一躍《いちやく》して東京相撲の前頭三 《まえがしら》枚目に据《す》えられたるがごとく然《しか》り。

 (二) けだし山田の学風は用意周到《よういしゆうとう》の一言をもっ てこれを尽すことを得。彼の講壇に立ちて国際私法を講ずるや、雄弁滔《ゆうぺんとうとう》々として天馬《てんぱ》空を行くがごとく、引証該博所説周密《い んしようがいはくしよせつしゆうみつ》、ほとんど麻姑《まこ》を傭《やとう》て痒《かゆ》きを掻《か》くの概ありという。これ実にかの両国の技術精練《ぎ じゆつせいれん》いわゆる相撲《すもう》四十八
手の曲折変化ほとんど達せざる所なきに似たり。もしそれ京都大学の博士仁井田益太郎に至りては、その学風むしろ簡潔明快《かんけつめいかい》をもって同大 学に鳴る。彼の担任講座たる民事訴訟法は、これ法律学中もっとも繁雑《はんざつ》にしてかつ乾燥無味なるものなり。しかも彼がその明晰《めいせき》なる頭 脳をもってこれを講ずるや、あたかも快刀をもって乱麻《らんま》を断《た》つがごとく、聞くものをして胸中の闊然《かつぜん》たるを覚えしむという。彼の 抱負《ほうふ》に曰く、民事訴訟法はこれを民法等に比すれば、その原則むしろ単純にしてかつ明快なり。かの雑然たる細目《さいもく》の規定は、多くはこれ その応用変化たるに過ぎず、 放《ほしいまま》に説くに容易にして、聞きて興味多きも、けだしこの学の右に出るものなしと。かくの如くにして、到る所に もっとも無味枯淡《むみこたん》なる学問として、人の嫌う所となれる民事訴訟法は、独り京都法科大学において、もっとも学生の喜び聞く所の科目たるに至れ り。
 周密と簡潔とは、かくの如くにして山田と仁井田との全く相反対せる特色なり。而してその特色は、これを彼等の文筆の事業においても発見することを得るな り。けだし山田も仁井田もその調査の敏快《びんかい》なるにおいて同一なりといえども、その出来上りたる成案に至りては、全くその性質を異にし、山田の調 査は周密該博《しゆうみつがいはく》なること岡田のそれのごとく、仁井田の研究は簡潔明快なることかの岡松のそれに似たり。思うに法典調査会において、山 田が穂積の補助員たりしごとく、仁井田は富井の補助員たり。かくの如くにして山田がその研究の該博において穂積の学風に類似せるがごとく、仁井田もまたそ の理論の明晰簡潔において富井の学風を追いし風あり。かの山田が英法に出でて仏独の二語またややこれを善くするに至りしは、かの穂積が英国学者として独仏 諸国の語学に通ぜるに似て、かの仁井田がドイツ法より出でて、独語に精通せるの誉《ほま》れある以外、また多きを求めざるは、富井が仏国学者として、仏語 の城壁に拠《より》て独り内外に雄視《ゆうし》せるに類するがごとき、けだしもっとも不可思議なる対照なりとせざるべからず。
 要するに山田の研究の周密なるは、かの両国《りようごく》の技術に精練にして屈折《くつせつ》多きに似、かの仁井田の学風の簡潔なるは、かの荒岩《セあ らいわ》の精悍《せいかん》にして、功を一挙に決せんとする相撲振《すもうぶ》りに似たり。この両者は実に共に東西の聯璧《れんべき》たるに背《そむ》か ずといえども、かの両国が到底《とうてい》小相撲の質にして、荒岩がついに大相撲の器《うつわ》たるは、ここに吾人が認めざるべからざる両者の差別なりと す。

(三) 山田と仁井油との異なる所は、豈《あに》その学風においてすと云わんや。その人物性情また全く相反するものあるを発見せずん ばあらず。けだし山田は世にいわゆるハイカラなるものの典型なり。吾人は曩日《のうじつ》赤門一生の書に答えて、壮士編を了《おわ》りてハイカラ編に移る と云うや、人皆|期《き》せずしてその山田を論ずるを知れりと云う。否《いな》、人のこれを知れるのみならず、彼山田自らまたこれを知りて、頻《しき》り に人に向かいて弁解しつつありと伝う。
 思うに人のハイカラたる、決して容易の業《わざ》にあらず。もしその資格を得んがためには、須《すべか》らくまず左の五個の要件を具《そな》えざるべからず。要件とは何ぞや曰く、
第ー 常識を欠けること
第ニ 押しの太きこと
第三 自惚《うぬぼれ》の強きこと
第四 厭味《いやみ》の多きこと
第五 薄《うす》ぺらなこと
こ の五個の条件をもっとも的確《てきかく》に満足し得るもの、天下けだし彼山田のごときはなかるべし。而してこの条件を満足し得ざること、彼仁井田のごとき も、けだしまた天下の異数なり。試みにまずその第一の条件についてこれを見よ。山田の一言一行は凡《すべ》てこれ均衡《きんこう》を失し、常軌《じよう き》を逸《いつ》し、いわゆる人の感触を害せざるものにあらざるはなし。もし天下いわゆる癪《しやく》に触《さわ》る人間なるものを求めば、けだし彼の右 に出るものなかるべし。要するに彼の行動はことごとくこれ没常識にして、到る所、失敗と奇行とを残しつつあり。吾人は取り立てて彼のいかなる行動や没常識 なりということ能《あた》わず。ただ凡《すべ》ての彼の行動は、常識以外なりというの外《ほか》なし。すなわち吾人がこのハイカラの第二以下の条件を証明 するに用いんとする材料は、ことごとくこれ彼が常識以上の人物たるを示すものなり。由来《ゆらい》天才は啻《ただ》に常識以上なり。けだし山田の没常識も またけだし彼が一種の天才たるに基因《きいん》せずんばあらず。
 これに反して仁井田は、ほとんど常識の結晶体なり。もし外形をもってこれを判ぜば、彼はまことにこれ素朴なる田舎漢のごとく、ほとんど一事のなすなきが ごとし。しかれどもその内面を覗《うかが》えば、彼の同輩中彼のごとく思慮《しりよ》深きはなく、彼のごとく世才《せさい》に長じたるものなし。これを もって彼の行動や、用意常に周到《しゆうとう》、一の失敗なく、一の奇行あるなし。かくの如くにして、彼の行径《こうけい》は記すべきものはなはだ少し。 その少き所また実にこれ彼の特質を示す所以《ゆえん》にして、これ吾人が彼を目《もく》するに常識の人、着実の人となす所以《ゆえん》なり。
 斬馬剣禅曰く、真摯率直《しんしそつちよく》の岡村教授は、吾人に書を寄せて、教授の評論に用いたる材料に誤謬《こびゆう》ある所以《ゆえん》をもって し、かつ直言諱むなき勝本教授もまた添ゆるにその証言をもってせり。吾人はこの尊敬する二教授の言に向かいて充分の信任を措《お》くが故に、ここに喜んで この記事の誤謬《こびゆう》の伝聞に出る由《よし》を天下に告白し、岡村教授のためにその冤《えん》とすべからざるの冤《えん》を雪《そそ》ぐものなり。 もしそれ岡村教授が故赤沼文学士の学資の一部を補助したるの事実に至りては、決して全然否定し得べきことにあらず。この点に関する教授の弁解は、実にこれ 亡友を庇保せんと欲する一片の義心に外《ほか》ならず。余はこの点において教授の人物に対して、一層の尊敬心を増したるの外、またその事実の訂正を許容 《きよよう》せんことを欲せず。かの新聞紙をもって浮華誇張《ふかこちよう》を事とすと云うがごとき、吾人教授の見解のはなはだ事実に違うものあるを遺憾 《いかん》とするものなり。

      斬馬剣禅に与うるの書            岡村京都帝国大学教授
 斬馬剣禅足下、余 は平生《へいぜい》言行の率直真摯純潔《そつちよくしんしじゆんけつ》ならんことを求めて、而《しか》も賦性《ふせい》怯懦《きようだ》未だこれを得ざる なり。足下『東西両京の大学』を著わし、意気|勃《ぼつぼつ》々頗《すこぶ》る一代を傾動《けいどう》して、余もまた京都大学の末班《まつばん》に列する の故をもって、ついにまた余に及ぶ賛揚太過|敢《あえ》て当る所にあらず、いたずらに愧悚《きしよう》を増すのみ。ただ足下記する所|往《おうおう》々事 実に反す。浮華誇張《ふかこちよう》は新聞紙の常態にして、必ずしもこれを弁ぜずといえども、その中一、二名節に関するものあり、ついにまた黙過する事を 得ず。請う得てこれを言わん。
 余、故赤沼金三郎氏と交を訂し、その学資の一部を補助せんとしたるは真実なるも、その峻拒《しゆんきよ》に逢うて已《や》みたり。その後余は外遊中反り て同氏の救助を受けたることはなはだ多きも、未だこれを報ぜざるなり。この事は亡友の面目《めんぼく》に関するをもって特にここにこれを一言す。
 余が本年三月、京都大学新築講堂においてなしたる演説はすこぶる世に誤解せらるるもののごとし。余はまさに憤俳道《ふんぴみち》を求む、未だもって人に 語るに足《た》るものあらず。しかれども余が今日までの思想の根底は窮竟中《きゆらきよう》庸にいわゆる従性|之《これ》謂道の一句に帰宿す。ただその性 と云うものを科学的に説明せんとするのみ、故に余は今日といえども決して儒教に背去《はいきよ》する者にはあらざるなり。
 新築講堂の演説は余が去年帰朝の船中、ルーソーの『懺悔録《ざんげろく》』を読みて、多大の興味を感じたるが故に、すなわち把《と》りて談笑の資となせ り。ただルーソーの性行が極めて奇異怪醜《きいかいしゆう》なるがため、往《おうおう》々長者を驚かせるのみ。余は同書中に、いわゆる感覚的道徳と云うも のに就《つ》きて感ずる所あり。
 思えらく世の匹夫匹婦《ひつぶひつぶ》に責むるに、克己復礼《こつきふくれい》をもってするは至難《しなん》なるが故に、その四囲の情態を更革《こうか く》して、万人をして知《し》らず識《し》らず下|徳義《とくぎ》に陥らざらしむるをもって社会|道徳《どうとく》の要《かなめ》となす。例えば大酒家の 酒蔵《さかぐら》中に座せしめて、その酒を飲むことなきを責むるは酷なり。故にそれはその身辺より酒を撤去《てつきよ》して、なるべくこれに接近するの機 会なからしむるに如《し》かず。もしそれ大人君子《だいにんくんし》に在りては、境遇のために徳を失う事なきは言を待たず。然《しか》れども、一般人を待 するに大人君子をもってすべからず。この論はまた近世実理主義者流の唱道《しようどう》する所にして、従来東洋道徳の欠点もまたここに在るが故に、余はこ れを声言《せいげん》せんと欲したるなり。すなわちロベスピールがルーソーに渇仰《かつこう》せしことを述べて稍《しよヵつしよ》々賛《う》歎の辞を加え しも、これは歴史を談ずる者の免かれざる所なり。余はただその勇気を称せしのみ、その行事を是認《ぜにん》したるにはあらざるなり。これを要するに余の説 は毫《こう》も政治上制度上に渉《わた》らず、主として歴史的事実を述べ、その附論として聊《いささ》か個人生活の上につきて誤想迷信《こそうめいしん》 等の陋俗《ろうそく》を打撃《だげき》せん事を試みしものなれども、余が言辞に嫻《なら》わざるの故をもって、その主意を徹底すること能《あた》わざりし なり。
 余の演説は、あるいは内外|論叢《うんそう》の附録として世に公《おおやけ》にせらるべければ、その時に及《およ》びて公明の批評あらんことを切望す。 曖昧虚妄《あいまいきよもう》の流伝《るでん》に因《よ》りて是非せらるるは、余の大いに遺憾《いかん》とする所なり。剣禅余を評して激烈となすも、剣禅 の激烈はさらに一層を加う。余|安《いずくんき》ぞ驚《よう》愕《がく》せざることを得んや。今は世の誤解を防ぐに急にして、交辞を修飾するの暇《いと ま》なし。剣禅請うこれを新聞紙上に登載《とうさい》せしむるの労を吝《おし》むことなかれ。
   七月四日朝
京都  岡村 司再拝


斬馬剣禅に与うるの書 勝本京都帝国大学教授
  斬馬剣禅君足下、余は本日の東西両京の大学、岡村君に関する評論中、同君が大学において……ただこれ邁往《まいおう》直前、ルイ十六世を断頭台に上《の》 ぼせしロベスピールのごとき大胆《だいたん》なるに至らざるべからず云《しかじか》々と演説せられたりとの一項を読み、いかに新聞紙とは云え、余り事実を 誣《し》うるのはなはだしきに驚駭《きようがい》せり。同君はかくの如き言を吐きたることなし。余は実に多数の聴衆と共に証人たるべし。足下の言あるいは 無意味ならん。しかれども世人はこれに依《より》て迷を懐《いだ》くの恐《おそ》れあり。足下|速《すみやか》にその誤りを正さざるべからず。これ新聞記 者たるものの責任なり。                      京都  勝本勘三郎


(四) 吾人はここに彼山田がもっとも 常識を欠ける一新事実を記せんと欲す。頃日、吾人が学界のハイカラを評論せんことを予報するや、彼中心大いに安んぜざるものやありけん、社員のある者に二 通の書状を送りて、自己及び他人に関するハイカラの材料を供するを口実として、面会を求め来れり。社員はその多忙なるが故にこれを謝絶し、ただ彼が高等中 学校学力検定試験に関する事実の正誤を依頼《いらい》し来りたるをもって、事実はこれを事実として七月四日の当|欄《らん》に掲《かか》げ、大いに彼の学 才を称揚せり。しかるに少しく常識に欠点ある彼は、吾人をもって彼のために喇叭《らつば》を吹くを敢《あえ》てするものとや考えけん、またまた長さ二丈四 尺、すなわち四間に亘《わた》る長文の書簡に由《より》て、自家の抱負《ほうふ》、功名談《こうみようだん》、学歴に関する手前味噌《てまえみそ》を臆面 《おくめん》もなく並べ立て来れり。吾人はこの書面に接して、実に彼の精力の大なることその常識の欠乏せるに驚動せり。殊に吾人を驚かしめたるものは、彼 が自家の功名を衒《てら》わんがために、現在欧州のある国に駐在せる我国の公使にして、紳士として学者として充分に尊敬すべき某氏を誹謗《ひぼう》し、 もって記事の材料に供せられんことを乞い来りしこと、及びその同輩にして友人たる某
某氏にもまた幾多ハイカラの材料あれば、来訪次第これを供給すべき由を申し来りし一事これなり。
  由来「自惚《うぬぼれ》の強きこと」はハイカラの特質なること、吾人すでにこれを論ぜるがごとしといえども、他人|殊《こと》に友人を誹謗《ひぼう》して まで、自家を高めんとする彼のごときは、ハイカラ中のもっともハイカラなるものにして、常識を欠けるもっともはなはだしきものと云わざるべからず。吾人は もとより直言直筆《ちよくげんちよくひつ》を期すといえども、その多くの紳士に向かいては幾多の同情をもって評論することを失わざりき。ただ公益上、やむ をえざる場合においては、またこれを筆誅《ひつちゆう》することを辞せざりしのみ。吾人またかくの如くにして、彼の友人の弁疎《べんそ》に鑑《かんが》 み、大いに同情をもって彼を評論せんことを欲したりき。しかれども彼の没常識なるかくの如く、自負傲慢《じふごうまん》なるかくの如く、その卑劣《ひれ つ》なることかくの如くんば、吾人は決して彼の弁護するの必要なく、同情をもって評論するの責任なし。否《いな》、露骨《ろこつ》の事実と、忌憚《きた ん》なき筆鋒《ひつぼう》とをもって、彼の暴慢《ぽうまん》を抑え、その自尊に向かいて反省を促さんこと、公益上はなはだ必要なるを感ぜり。吾人はもとよ り事実を曲げて彼を陥れんことを欲せず。吾人はただ彼に関して同人間に伝われる幾多の材料を暴露《ばくろ》して、忌憚《きたん》なく論評を加えんと欲す。 再言すれば、吾人が従来彼に対して有せし多少の同情は、この一事のためにまったく一掃《いつそう》せらるるに至れり。これ吾人が前回の紙上よりややその態 度を改め来たりたる所以《ゆえん》にして、事は実に彼の常識を有せざるの結果なりと云わざるべからず。
 これをかの京都大学の仁井田が、挙止実に着実に名を棄てて実を取り、敢《あえ》て虚名を馳するを好まざるに比すれば、けだし雲泥《うんでい》の差なくん ばあらず。かつて仁井田の東京法科大学教授小野塚喜平治と共に遊学の途に上るや、共にイタリーより上陸す。時に税関に手荷物の関税を仕払い、その請取書を 取れり。しかるに仁井田は請取には、某国人仁井田と記せり。常に体面を重んずる小野塚は、大いにこれをもって同胞の恥辱《ちじよく》となし、請取書の書替 《かきかえ》を税関に逼《せま》るべしと主張す。仁井田笑いて曰く、「某国人でも日本人でも善《よ》いじゃないか、まあ旅を急ごうよ」と。小野塚|憤慨 《ふんがい》するもまたついに及ばざりしという。仁井田のドイツに着するや、彼の儕輩《さいはい》が争いてベルリン、ミュンヘン等の有名なる諸大学に学ぶ に当り、独りドイツの陬僻《すうへき》なるボンの大学に止るに決したりき。これ彼が留学の第一目的は、語学を研究するにありとなし、その日本人多数の在学 せる土地は決してその目的に添うものにあらずと信じ、ここに一人の日本人なきボンをもっともその適当の地となせし、彼の深遠なる思慮より案出せられたる計 画なり。かくの如くにして、彼ボンに止ること数ヵ月、研鑽頻《けんさんしき》りに勉む。中村進午《なかむらしんこ》一日彼を見んと欲し、ボンに至りてその 旅舎を訪うや、数ヵ月間常にドイツ語のみ語りたりし彼は、ついに日本語を忘れ、言辞はなはだ難渋《なんじゆう》なるものありしという。要するに彼仁井田の 一挙一動《いつきよいちどう》は、彼が常識に富み、思慮深き性質を表彰《ひようしよう》するものにして、かの山田の常識に欠くるものあるとは、けだし全く 反対の性情なりとせざるべからず。

(五)常識を欠き、自惚《うぬぼれ》強く、押《お》しの太きもの、豈啻《あにただ》にハイカラのみと云 わんや、天下の英雄豪傑《えいゆうこうけつ》皆|然《しか》らざるはなし。この点より見れば、山田は確かに一種の豪傑なり。見よ彼の自惚の強きこと、到底 《とうてい》常識ををもって量るべからざるものあるを。彼かつて留学中ベルギーの首府ブルッセルに遊び、馬車を傭うてその日本公使館に至るべきを命ず。し かるに馬車はロシア公使館に引き入れられ、その過《あやま》りなることを発見するに及んで、再《ふたた》び帝国公使館に行くべしと命じ、ようやく来着する ことを得たり。時に彼の公使館貝に向かいてなしたる言草《いいぐさ》なるものが、もっとも特筆を値するものなり。曰く、「いかにもブルッセルと云う所はフ ランス語の通じない所だ」と。ベルギーはフランスの姉妹国にして、フランス語は実に国民の常用語なり。もし山田の自惚《うぬぼれ》をして凡人のそれならし めば、彼は必ずや自家の発音の未だ完全ならざるに想到《そうとう》し得たりしならん。しかも彼や一種の豪傑なり、彼の自惚《うぬぼれ》や常識以上なり。彼 は自ら反省するの前、まずフランス語のベルギー国語たりしや否やを疑いしなり。要するに彼の自惚の、いかにハイカラたるに充分なるやは、この一事をもって も大概《おおむね》その一般を推測するに難からざる。
 その他彼がいかに自惚《うぬぼれ》強きかに至りては、彼が我社に寄せたる長さ四間の書面に徴して明らかなり。試みにその事実の二、三を挙《あ》げんか。 曰く、「小生のハイカラ的挙動は大いに他人と異なり候《そうろう》。小生は法典調査会に起草委員補助となる前より外務省|嘱托《しよくたく》にて、当時の 難問題たりし条約実施準備に従事し、外交の機密書類もことごとく渉猟し、有名なる帝国議会の条約改正に関する質問に答弁書案を起草し、大臣次官と日々直接 談話の事のみ致居候《いたしおりそうろう》云々」。大臣次官と直接談話がいかに彼のために名誉なるにや。この一事は彼の自惚が豪傑《こうけつ》のそれにあ らずして、ハイカラのそれなるを証明するものなりといえども、しかも彼のこれをもって天下に誇らんとするの勇気や、決して凡人の企及《ききゆう》すべき所 にあらず。
 また曰く、「当時将来外務省のためにも研究すべしとのことにて、留学中も外務の補助を受け居り候故《そうろうゆえ》、由来我《ゆらいわが》外交の成功少 き所以《ゆえん》は彼等の気風に応ずる急所を解せざるがためと信じ、留学中は勉めて欧米各国の民情風習を知得することを専一とし、幸いかつて私費留学を企 てたること故、父兄よりも文部省と同一の留学費を受け、上は天侯より下は匹夫《ひつぶ》の交際社会に至るまで経験せんと期し、学閑には欧州各国に一回一、 二ヵ国ずつ順次|漫遊《まんゆう》して視察致候《しさついたしそうろう》。かつ国際私法の学は各国国語に通じ、各国民交通の必要を理解せるにあらざれば、 充分に研究|出来不申候《できもうさずそうろう》」と。もっていかに彼がその抱負の大なるかを見るべし。自惚《うぬぼれ》もここに至りてまた多とするに足 《た》る。吾人が彼をもって一種の豪傑《こうけつ》となすも、豈《あに》偶然ならんや。
 また曰く、「右のごとき事情より、下宿屋に閉居《へいきよ》するよりは語学を専一《せんいつ》とし、英仏独は勿論《もちろん》、伊《イタリ 》、蘭《オ ランダ》、露《ロシア》語も少しく研究|致候《いたしそうろう》。また各地劇場に遊び、古今の名劇をことごとく観覧し、社交に必要なる舞踏も学び、ベルリ ン在留の際はすでに上達し、ドイツの事情も別《わか》り居り候故《そうろうゆえ》、教授の宴会《えんかい》にも、新聞記者の宴会にも、俳優の宴会にも、ド イツ帝親臨の大舞踏会にも出席し、ドイツ宰相以下各国外交官の群集中にて彼等と共に舞踏し、ドイツ士官と踊《おどり》の対手《あいて》を競争して勝《か》 ち誇《ほこ》りたることも有之候《これありそうろう》。我外交官等はこの踊に出ても共に踊る婦人は無之《これなき》とかにて、参列するもの稀なり。この舞 踏会には会費少くも五十円を要し候。今日となりては、外務顧問にもあらず、随分馬鹿気《ずいぶんばかげ》た事をも学びたるものに御座候《ござそうろう》。 しかし斯学《しがく》の根底《こんてい》を理解したる利益|有之候《これありそうろう》」と。吾人いわゆる三文《さんもん》文学者輩が、社会人情の真相を 研究すと称して、頻《しき》りに狭斜《きようしや》の巷《ちまた》に出入するものあるを聞けり。しかれども国際私法を研究するがために、舞踏を練習せし彼 山田のごときは、未だかつてこれありしを聞かず。彼の識見《しきけん》は到底《とうてい》凡人の測《はか》り知るべからざる所なり。
 また曰く、「ドイツ在学中には、三十二年三月十六日、ビスマルク公夫婦の改葬式あり。公の根拠地ハンブルク市の代表者二千名式場に参列し、ドイツ帝はベ ルリンより会葬せらる。当時小生は同市に豪商の令嬢結婚式に招かれ滞在中なりしが、市長より余に特に参列を許され、ドイツ帝通過を観覧したるは最も愉快と したる所にて、斯《かか》る稀有《けう》の事故、小生の研究の材料に有之候《これありそうろう》」と。宮岡弁理公使夫人かつて山田を評して曰く、世上もっ とも軽蔑すべきはいわゆる贋造《がんぞう》ハイカラなるものなり。ハイカラもまた山田三郎君のごときに至りて、大いに尊敬するに足ると。吾人もまた宮岡夫 人と共に、彼の抱負《ほうふ》と、勇気の非凡なることに向かいて少なからざる敬意を表するものなり。

(六) その他山田の書簡中、ハイカ ラ的|自負《じふ》の文字はほとんど枚挙《まいきよ》に遑《いとま》あらず。曰く、「帰朝前に帝国政府委貝として小生とフランス通《つう》の杉竹二郎氏 (内閣秘書官)と同道にて、万国工業所有権保護同盟会議《ばんこくこうぎようしよゆうけんほこどうめいかいぎ》に列せんため、ベルギー首府に罷出《まかり い》でたるは一九〇〇年十二月にして、当時欧州の事情については、小生等両人共ベルギー在勤の公使、公使館員の上にありて、一驚《いつきよう》を喫《き つ》せしめたることに御座候《ござそうろう》」。曰く、「この会議においても小生は列国の委員と大いに社交場裡に公使に紹介せらるるよりは、公使を小生よ り紹介せり(小生はその前各国を漫遊《まんゆう》し、面識《めんしき》の人多かりし故《ゆえ》なり)。この事を当時ベルギー在留の公使館書記官または留学 生ら聞き違えて、小生を外交官と風説《ふうせつ》せしことあり。これ皆小生がドイツ留学中にハイカラすなわちかの地の風俗に同化したるの致す所と存候《ぞ んじそうろう》」。曰く何、曰く何と。滔《とうとう》々数万言《すうまんげん》、自家の功名談披《こうみようだん》瀝し来ってまたほとんど余蘊《ようん》 なきなり。吾人は彼の常識の有無《うむ》を疑う者なりといえども、・その自信の大なるの一事は、ほとんど驚嘆《きようたん》せざるを得ず。これをしも豪傑 《こうけつ》と云わずんばはた何とか云わん。
 要するにこの破天荒《はてんこう》の自惚《うぬぼれ》は、一方においては彼の言うべからざる美質を表白《ひようはく》するものなり。美質とは何ぞや、曰 く彼が無邪気《むじやき》なることこれなり。彼は自負自尊《じふじそん》において天下ほとんど類例の求むべきなしといえども、しかも彼の無邪気なるや少し もこれを隠さんことを欲せず。またこれを他の陰険《いんけん》なる方法によって満足せしめんことを求めず、もっとも露骨《ろこつ》にもっとも淡白に、彼が 書中に云うごとくいわゆる「事実を事実として」天下に広告せんことを欲するものなり。しかれども彼が他人を陥擠《かんせい》してまでその慾を遂《と》げん と欲するがごときは、ただその自負心に走り過ぎたる一時の現象にして、必ずしもその根本的心事にあらざるべし。けだし彼はその外面に顕《あら》われたるよ りは、愛すべき無邪気なる男なりとは、彼を知るものの一般に唱うる所なり。ただ彼や神経やや鋭敏《えいびん》を欠き思慮《しりよ》乏しく浅薄《せんばく》 なり。これをもってその行動ややもすれば人の感触を害し、また善く人の利用する所となる。殊にその利用せらるる点のごとき、まことに彼の美点を表彰して、 而《しこたつ》して余りあるものなり。もし「山田君に限る」という一言をもって彼に呈すれば、彼はいかなることをも甘《あま》んじてこれを引受くべし。
 彼が法学協会雑誌|編纂主任《へんさんしゆにん》として、善《よ》く全力を尽《つく》して、大いに紙面に光彩《こうさい》を放たしむるに至りしがごと き、まことにその適例なり。彼その書簡中に自負《じふ》して曰く、「東京大学諸教授をして、京都大学に対して公憤《こうふん》を発せしめ、先輩を鞭撻《ぺ んたつ》して学界に貢献《こうけん》せしめ、兼《かね》て東京大学の面目《めんぼく》を発揚《はつよう》し、『内外|論叢《ろんそう》』(京都法科大学の 雑誌)の広告文より『空前の大雑誌』なる文字を何時《いつ》の間《ま》にやら消却《しようきやく》せしめたるものは、近来の法学協会雑誌に有之候《これあ りそうろう》。かかる労多くして功少きことは、公憤のために自ら犠牲となりたる次第《しだい》に御座候《ござそうろう》」と。彼の御目出度《おめでた》さ 加減《かげん》もって知るべし。吾人はかくの如き彼に対して、まことにその可憐好愛《かれんこうあい》すべき美点を発見するも、未《いま》だ悪《にく》む べき点あるを見ざるなり。

(七)彼山田すでに常識以下の自惚《うぬぼれ》を有す。これをもって彼の押しの太き人物たるに至りし、もとより 自然のみ。けだし押しの太きことは彼の特長にして、かつ欠点なり。これあるがために彼しばしば成功し、これあるがために彼しばしば失敗せり。彼のフランス にあるや、彼の同人は彼を呼ぶに山羊《やぎ》をもってせり。けだし山羊《やぎ》の性たるはなはだ怯懦繊弱《きようだせんじやく》なりといえども、その角 《つの》をもって押《お》し合《あ》うに当りてや、何物といえども未だその力の大なるに如《し》かず。いわゆるこれ獣類中もっとも押しの太きもの。人のこ れをもって山田の勇往果敢《ゆうおうかかん》なるに比せし、決して偶然にあらざるなり。かくの如くにして、彼は到底《とうてい》凡人の忍ぶべからざる所を 忍び、常人のなす能《あた》わざる所を敢《あえ》てし、善《よ》く奇功《きこう》を収め、また思わざる大失敗を招くことあり。
 その失敗中もっとも有名なるを宮岡夫人|接吻事件《せつぶんじけん》となす。欧州の俗、貴夫人を接吻するをもって礼とす。いわゆる欧俗に同化せるをもっ て自任せる、彼はある日、ベルリン日本公使館の夜会に、自ら進んで宮岡夫人(当時一等書記官夫人たり)の手を捕う。衆その山田が何をなすやを疑いしに、彼 はその長広舌を出して、夫人の手先を健かに舐《な》めぬ。さすが交際場裡に老手《ろうしゆ》の名ある宮岡夫人も、これには大いに辟易《へきえき》したりけ ん、咄嗟《とつさ》手を引きながら「何をするんですね、山田さん」と叫びぬ。あるいは伝う、当時宮岡夫人の手袋は、新調の白絹製のものなりしが、彼の一| 舐《なめ》に逢いて、一大|斑点《はんてん》を残すに至りしと。これ実に彼のいかに押しの太きやを示すやの好実例なり。
 かくの如き山田のハイカラ的挙動は、当時在ベルリンの留学生連の一般に冷笑する所なりき。就中《なかんずく》かくの如き行動をもって、もっとも国家の体 面《たいめん》を汚《けが》すものなりとなし、憤慨|措《お》かざりしものを博士志田鉚太郎となす。けだし志田はいわゆる武上道気質の蛮《ばん》カラにし て、殊に当時ベルリン来着早々なりしの故に、彼山田が先輩ぶりて頻《しき》りにハイカラ風を吹かすことは、もっともその感触を害したりしや疑いなし。ある 日某|珈琲《コ ヒ 》店にて教育上のことを論じて、端《はし》なく山田と衝突し、靴を挙げて山田を蹴るに至りぬ。たまたま水町袈裟六《みずまちけさろ く》その座にありしをもって中に介して和解せしも、両者|意《こころ》ついに解けず。後数日水町の寓所において、志田の塩谷判官《えんやはんがん》室の戸 を締め切り、「山田覚悟せよ」の一言と共に鉄拳《てつけん》を振うて、高師直《こうのもろなお》に飛び掛りし珍事あり。座中、鶴田医学士の加古川本蔵《か こがわほんぞう》の役を務むるありて、大事なくして止みたりしも、志田の憤懣《ふんまん》はこの一事をもって到底|消散《しようさん》せずやありけん。直 《ただ》ちに書を裁して山田に致し、時と所とを期して決闘を申込むに至れり。ここにおいて事はついにベルリン留学生間の大問題たるに至り、かの世話好きの 高根、中に介して大いに斡旋の労を執り、ようやく事の落着《らくちやく》を見るに到りぬ。この一事はもっていかに山田が、その当時ベルリン通《つう》を もって自任し、ハイカラ的行動を肆《ほしいまま》にしたりしやを示すに足る。

(八) 押しの太きことは山田の欠点たると共にその長所な り。これあるがために、その失敗が所在に演ぜらるると共に、これあるがためにまた思いがけなき奇功を奏せられざるにあらず。見よ彼がパリ在学中、各種の万 国会議のこの地に開かるるや、彼その専門に関するものにはことごとく出席し、しかもその不充分なるフランス語をもってして臆面《おくめん》もなく幾多の演 説を試み、我《わが》法制に関して彼等の誤解を解き得たるものは、全く彼の押しの太き特性より来りたる賜物《たまもの》にして、これ決して他の小心|翼 《よくよく》々たる遊学生輩に向かいて望むべからざることに属す。ただ彼が欧米各国の委員が、「東洋人にしては感心なり」くらいの喝采《かつさい》に向か いて有頂天《うちようてん》の自惚《うぬぽれ》を喚起《かんき》し、「演説に討論場に応分の任を尽《つく》し、あるいは副会長のみならず、稀有《けう》の 名誉副会頭に推薦《すいせん》せられたり」等と自負するに至りて、ただ片腹痛《かたはらいた》く感ずるのみ。
 かつそれ彼の云う所によれば、彼がベルリン留学中、「ミカド」及び「ゲイシャ」の二楽劇のはなはだ国家の体面《たいめん》を汚すものあるを慨し、フェル ジナンド・ボンなる俳優に談《かた》るに、吾国の風俗をもってし、もって彼が「キビト」なる喜劇を作るの材料を供せしことあり。この演劇は日本人キビト伯 爵《はくしやく》がドイツに留学中、ドイツの一寡婦の家に寄寓《きぐう》し、その娘を無理強《むりじ》いに娶《めと》らしめられんとするを大筋《おおす じ》となし、その精神とする所は、欧米はその物質的文明において東洋に勝《まさ》るも、その精神的文明においては、却て東洋に学ぶ所なかるべからずと云う にあり。この演劇は大いに満都の喝采《かつさい》を博し、ノイエス・テヤターにおいて五十日間の大入《おおいり》を見たり。その二十五回目の時、彼、公使 館員等と観覧して一大花環を贈り、その五十回目に穂積陳重を案内して、また一大花環を贈りて大いにその成功を祝せりと云う。今やこのフェルジナンド・ボン はドイツ帝室|付《つき》の俳優となり、名声我国の団十郎《だんじゆうろう》に匹儔《ひつちゆう》すと。吾人は彼の手前味噌《てまえみそ》のことごとく真 なりや否やを知らずといえども、もしこれをもって事実なりとせば、そはまた確かに彼の押し太きための奇功の一として、特筆《とくひつ》してもって天下に紹 介するを辞せざるものなり。
 なお彼の書簡中に、大西洋上船中の一功名談を載せたり。曰く彼キュナールド会社のカンパニヤ号にて英国より米国に至らんとするの際、欧米人と西洋|将棋 《しようぎ》を闘わして船中また一敵なきに至れり。これをもって彼等、山田をもって多芸の人となし、その船中水夫救助慈善会の催しあるに及んで、彼をもっ てその独吟者の一人に加えたり。生来未だ唱歌をなしたることなき彼は、やや窮せざるにあらざりしも、たちまちにして、その押し太き本性を現わし、自若《じ じやく》として桜花の歌を吟じて、これを意訳《いやく》し、大和魂《やまとだましい》茲《ここ》にありと叫び、さらに鞭声粛々《べんせいしゆくしゆく》を 吟じて古人の軍歌となせり。欧米人大いに彼の美音(?)に感じ、喝采《かつさい》大西洋の波を湧すに至らんとせりと。而して彼自ら註釈を附して曰く、「こ れ欧米人その歌意と北清事件の実例とを連想して、もって喝采せしなり」と。吾人は云わんとす、これ山田の美音を聞き、風采を望み、好箇《こうこ》ジャップ のハイカラ的|見世物《みせもの》として喝采せしなりと。宜《むべ》なるかな船中、法学士|渡辺千代三郎《わたなべちよさぶろう》ありて、会後彼に向か い、余は実に君の名吟を聞いて、冷汗《ひゃあせ》の背に湿《うるお》うを知らざりきと云いしことや。吾人はこれをもって彼の奇功となすべきや、将《は》た 失敗中に数うべきやを知らず。恐らくはこれ失敗的奇功と云うを適当とすべきを信ずるものなり。要するにハイカラの第三条件たる押しの太きことは、彼の特長 にしてまた欠点なり。彼が一種の豪傑《こうけつ》たるもまたこれがためなり。彼がハ子カラの標本たるもまた実にこれがためなり。

(九)厭 味《いやみ》と気障《きざ》とはハイカラの専売なり。吾人は彼のシルクハットの写真を見るごとに、常に「おほん」と咳《せき》一咳せざるを得ず。彼が単身 その生齧りのフランス語を提げて(もとより夫子《ふうし》自らは生齧りにあらずという)、猛然パリっ子の群に投ずるや、その先天的気障性、たちまち二、三 の奇談をこの社会に残すに至りしもの、決して偶然にあらざるなり。
 仏語に「チアン ヴォアラ」なる一語あり。用途極めて広汎《こうはん》なる一種の感嘆詞にして、驚愕《さようがく》を意味し、驚喜を意味し、邦語これを 訳して大概《おおむね》「おや、まあ」とすべきがごとし。けだし一種のハイカラ語なり。彼のパリに来るや、未だ仏語に熟せざるの前、まず彼の気臆して、到 る所にこれを濫用《らんよう》し、人をして面を背《そむ》けしめたるものは、この「チアン ヴォアラ」の一語なりき。また常人の宴会の帰途において、その 待たせ置きたる馬車を呼ぶには多く別当《ぺつとう》の一語をもって足れりとす。殊に万事不案内の日本人において然《しか》りとなす。ただ純然たるパリっ子 にして、もっとも時流を追う所のもの「ブス、ブス」と聞こゆる一種のその口笛を用いてその馬車を呼ぶなり。而して彼山田に至りては、自ら生粋《きつすい》 のパリっ子をもって任ずるが故に、到所《いたるところ》「ブス、ブス」を用いて止《や》まざりしという。以上の話は、今日なおパリの交際社会に喧伝《けん でん》せらるる奇談なり。
 殊に彼をしてもっとも気障《きざ》ならしめたるものは、彼の舞踏癖なり。ベルリンに有名なるエンベルグの舞踏場あり。「エン」は漢音「遠」に通じ、「ベ ルグ」は独語「山」を意味するがゆえに、我《わが》留学生これを呼んで遠山の舞踏場といい、もっとも彼等の得意《とくい》場とする所なり。もしそれ初夜杖 をこの所に曳き、三十七銭五厘の入場券を購うてこれに入らんか。洋々たる音楽に連《つ》れて、雲のごとき名媛、美姫が片眼鏡《かためがね》のハイカラ紳士 と手を連ね、余念《よねん》なく跳舞翩翔《ちようぶこうしよぬつ》するの奇観を見ん。かの、
  飛び狂ひ秋風知らぬ胡蝶《こちよう》かな
という文字は、善《よ》くこの嬌態《きようたい》を描き尽《つく》したるものなり。留学生杉梅三郎かつて戯《たわむ》れに俗謡を作って曰く、
 ベルリンの書生は身が持てぬ、
 昨日《きのう》も今日も遠山で、
 ビールが取り持つ縁かいな
と。 もっていかに留学生の浮かれ場所たるかを知らん。福本日南《ふくもとにちなん》かつてパリよりベルリンに遊び、即夜有名なるこの舞踏場を訪う。たちまち鶯 歌燕舞《おうかえんぶ》の壮観に接して、盛況決《せいきよう》してパリに下らずとなせり。すでにして一群の舞手、ヴァルズの曲に連れて、落花の狂風に渦 《うずま》けるがごとき間より、二人の日本紳士の舞い連れて顕《あらわ》れ来るを見たり。一人はすなわち山田三郎にして、一人はすなわち織田万なり。ここ において日南その奇遇に驚き、一首を賦して曰く、
   遠山の霞《かすみ》は晴れて一面に
       お田もやも田もあらはれにけり
  と。これ今日なお留学生間に伝唱《でんしよう》せらるる名吟なり。
 この一事は織田が山田と共に、一見《いつけん》舞踏狂なるがごとく察せられざるにあらざれども、別に一種の奇談ありて、この点に関しては織田は決して山田の敵にあらざるを証明するなり。
  けだし山田のドイツに着するや、最初の八ヵ月間はハイデルベルヒ大学に遊び、次《つ》ぎの八ヵ月間をドイツ北方の小都ゲッチンゲン大学に送りたりき。 ある時彼ベルリンに遊び、織田に五十マークを借りて、わずかにゲッチンゲンに帰来せしことあり。時に織田彼に一首を与えて曰く、
山出し(山田氏)の者にさぶらう(三郎)
   と名にし負《おわ》ばゲッチンゲンの奥に引込
と。そのゲッチンゲンに帰着して、五十マーク中わずかにニマークを残すに過ぎずと云うを聞くや、織田また直ちに一絶を彼に与えて曰く、
今更我儕彼此云
大津絵的歌何粋
掛于斯道独推君
五十両中残二分
山田対仁井田
と。斯道とはすなわち舞踏の道なり。この点において彼はすなわち遥かに織田の上にありと。吾人はここに彼山田が斯道の撰手たるを見て、彼のハイカラ的|厭味《いやみ》の因源する所、はなはだ深きを知らずんばあらざるなり。

(十)  山田の舞踏癖を紹介するに当り、彼がハイカラ的特色を発揮するがために、筆の必ずこれに及ばざるべからざるの一事は、パリ留学生間に有名なる谷本富脚 《たにもととめる》本事件となす。而してその詳細を記するの前、まず事の順序として、吾人は彼のベルリンにおいて有名なりし筧克彦《かけいかつひこ》和服 事件を紹介せざるべからず。
 法学士筧克彦、文部省留学生としてベルリンに至る。彼は一種の蛮《ばん》カラにして、頻《しき》りに奇《き》麁うの性癖あるが故に、蕎馨霾を窪てベルリ ンの市街を蹴厨し・もって響快となせり。かの井上公使夫妻を主賓として、ベルリンの留学生一同が撮影せる写真中にも、彼は有名なるその和装をもって独り豪 傑を気取りつつあり。ドイツの一紳士、かつてこの写真を見て曰く、この中二人の貴夫人ありと。一は井上公使夫人にして、一は筧克彦なり。近者|頻《しき》 りに寛袖《ひろそで》の婦人服流行するの時、彼は和装|無髯《むぜん》の筧をもって日本婦人と見過《みあやま》りしなり。豪傑を気取《きど》りて婦人と見 過らる、けだし一幅《いつぶく》のポンチ画ならずんばあらず。かくの如き奇を好むに過ぎたる彼の挙動は、ほとんど留学生一般の批難する所にして、就中《な かんずく》そのもっとも躍起運動《やつきうんどう》をなせしものを博士小野塚喜平治及び山田三郎となす。けだし小野塚のこれに反対する動機は、全くその神 経質より出ずる例の国家の体面論《たいめんうん》にして、山田のこれを抑制せんとする理由は、例の郷《こう》に入りては郷に従うて欧州風俗同化論なり。そ の他乱暴なる田島は鉄拳をもって脅《おど》し、罵倒屋《ばとうや》の建部遯吾《たてべとんこ》はパリにおける高橋健三を学ぶものと冷評せり。かくの如き四 面の攻撃あるにかかわらず、かの筧は頑強なる、少しも反省する所なかりしかば、彼等留学生連は一人としてその剛愎《こうふく》を悪《にく》まざるはなく、 彼をして反省せしむるに足るの復讎的機会を覗《うかが》えり。
 あたかもよし一日、同人相携えてかのベルリンの名所トレブレーに舟遊の挙あり。時にたまたまかの筧の帽子、風に攫《とら》われて水中に落つ。衆皆この珍 事を快とし、舵手《だしゆ》、漕手《そうしゆ》等ほとんど言い合わしたるがごとく、頻《しヒさ》りに船を急進せしめて、ついに筧をしてその帽を拾い上ぐる の機会を失わしめたり。けだし欧州の俗、無帽をもって道路を歩むもの、狂者にあらざれば痴者なり。ここにおいて筧上陸するや帽を購《あがな》わんとして得 ず、己《や》むなく馬車を賃して帰途につくに至れり。この時の筧やほとんど冷嘲熱罵《れいちようねつば》の中心となり、ほとんど前日の顔色《がんしよく》 なかりしなり。これいわゆる有名なる筧克彦和服事件なるものの真相とす。今吾人がこれを読者に紹介するものは、かの山田の行動が徹頭徹尾《てつとうてつ ぴ》ハイカラ的なるを示すこと以外、また別にかの筧が一種の古狂癖を有することを例示して、後の脚本における彼の役割の趣旨《しゆし》を明らかにするもの なり。

(十一) 京都大学講師|谷本富《たにもとンめる》フランスの京《みやこ》パリに遊び、大いに演劇と教育との関係を研究す。而《し こう》して彼その理論を実際に応用せんがために、当時の留学生の性癖《せいへき》と奇行《きこう》とを材料として、一個の脚本を編《あ》みたり。この脚本 |世話物《せわもの》、中幕《なかまく》、大切《おおぎり》の三部より成《な》り、巧みにその人物の面目をして、舞台に躍如《やくじよ》たらしめたり。
 その一番目|世話狂言《せわきようげん》を「日本土産誉一振《にほんみやげほまれのひとふり》」となす。劈頭《へきとう》まず弾琴の音をもって幕の開く を見る。ここ幽静《ゆうせい》なる樹林を囲《めぐ》らし、新しき門柱を立てたる瀟洒《しようしや》なる一構いは、小石川原町学士|志田錚太郎《しだこうた ろう》(新任法科大学教授)の邸宅となす。ただ見る一個|有髯《ゆうぜん》の紳士、高等師範学校教授樋口勘次郎なる名刺を出して案内を乞うものあり。やが て弾琴の音の絶ゆると共に、中より高尚なる束髪姿《そくはつすがた》いかにも利発気《りはつげ》なる今様《いまよう》世話女房の出来るを見る。これ有名な る志田夫人亮子の君なり。ここにおいて夫人は寺子屋の小娘もどきに主人の不在を告げて愛相善《あいそよ》く客の来意を問うことなり。樋口勘次郎、車夫に携 帯せしめたる長方形の箱を出し、辞を低うして曰く、「今日|罷《まか》り出《い》でたるは余の儀にあらず、某兼々備前村正《びぜんむらまさ》の一刀を、ド イツなる学友生駒万次に届けやりたき蔡なりしが、あたら名刀を名もなきハイカラ連の手に掛けて・耀弄物《ろうぶつ》扱いさるるも残念なりと、これまで差控 《さしひか》え居りたる処、この度《たび》志田博士遊学の途に上《の》ぼらるると承《うけたま》わり、博士は名に負う、幕府の御指南番志田相模守殿《ごし なんばんしださがみのかみどの》の末孫と承わり、殊に御気性《こきしよう》も武士道|一点張《いつてんばり》とのことなれば、博士この一刀を御持参下さる ることなれば、刀の誉れ、身の幸福、何卒《なにとぞ》折り入って頼み上げまする次第《しだい》で御座《ござ》る」と述べ立つ。
 亮子夫人思案の体《てい》、暫時《ざんじ》して思い入れ宜《よう》しくあって「折角《せつかく》の御頼み、御届け申すに何の面倒も御座りませねど、元来 夫錚太郎は御存知の通りの蛮《ばん》カラ、ともすれば打つの斬るのと騒ぎ出しますほどに、連《つ》れ添《そ》う妾《わらわ》は常《つねつね》々心を痛めて 居《お》りまする。またこの度《たび》の洋行につきましても、決闘流行のドイツへやるのは、ほんに心配なことで御座《こざ》んすほどに、刃物と云う刃物 は、ナイフ一|挺《ちよう》でも持たしてやるまいと、今から心掛けて居りますくらい。まして村正《むらまさ》は人を切らで納《おさ》まるまじき不吉の刀と 聞くほどに、夫の身に付けて決闘国へやりまするは、薪《たきぎ》を抱いて火に臨《のぞ》むとやら申す諺《ことわざ》より、もそっと案《あん》じられます る。何卒妾《なにとぞわらわ》の心を御推量《こすいりよう》あって、他様へ御頼み下さりまするよう、折入って頼み上げまする」と他事なき頼み、「ははー、 感じ入ったる貞女の心ばせ。さもそうず、さもありなん」と、樋口勘次郎感心して立ち去る。
「折《おり》からに立ち帰る主《あるじ》の源蔵《げんぞう》」と云わぬ許《ばか》りに、志田錚太郎帰来す。亮子夫人告ぐるに、その樋口の来訪と依頼の口上 《こうじよう》とをもってせしも、さてその用件を謝絶したる理由の実際を告ぐるは、却て夫の機嫌《きげん》を損ずる所以《ゆえん》なるを思い佯《いつ わ》って曰く、「常々貴君の御持論も御座《ござ》りますれば、文明国に左様《さよう》な野蛮の遺物を持参することは出来ませぬと断りました」と。志田これ を聞いて喜んで曰く、「持つべきものは女房なり。出《で》かした、出かした」と、大恐悦《だいきようえつ》の体《てい》にて幕。
 二幕目は筧克彦《かけいかつひこ》邸宅の場。ここに前幕の樋口勘次郎刀を携えて出て、志田の同行者なる筧に向かいて刀を頼むことあり。筧喜び諾し、例の 有名なる和服姿にて、直《ただ》ちに村正《むらまさ》を抜き持ち「鞭声粛《ぺんせいしゆくしゆ》々」を舞《く》う件宜《くだりよう》しくあって幕。

(十 二) 由来西劇中幕において、悽愴《せいそう》の光景を写せる一段を挿入《そうにゆう》するをもって例となす。これをもって谷本富もここに、「心機一転恋 愛譚《しんきいつてんれんあいたん》」なるものを充《あ》てたり。ただ見る老樹|蓊鬱《おううつ》たるパリの西方サン・クルi公園高台の夜色、セーヌ河| 水烟糢糊《すいえんもこ》として脚下に横《よこたわ》り、今しも宵闇《よいやみ》の月代《つきしろ》、東山を出で、遥かにパリの全市の幽陰の色に眠れるを 見る。夜はすでにふけて五更《ごこう》、万籟《ばんらい》まったく止んで鬼気《きき》人を襲い、ただ老梟《ろうきよう》の喬樹《きようじゆ》に叫ぶを聞く のみ。たちまち見る婆娑《はさ》たる人影、森林の中より現われ来りぬ。見る間に人影は樹間を縫《ぬ》い漂《ひようひよ》々として歩《う》み、、やがてパリ に面したる小|亭檄《ていしや》に近《ちかづ》くよと見る間に、たちまちその卓上に攀《よ》じ上《のぼ》りぬ。彼の眼眸《がんぽう》の釣り上れるを見よ、 彼の眼光《がんこう》の閃《きらめ》くを見よ。身には形ばかりのフロックコートを着けたるが、ややその地色の茶褐色を呈せるは、すでに幾星霜《いくせいそ う》を経《へ》たる古褞袍《ふるどてら》にやあるらん。嗚呼《ああ》これ人か鬼かはた狂か。
 やがて彼はその蒼白の面を月光に晒《さら》しぬ。見よその梳《くしけず》らざる頭髪は前額に乱れ、その血走れる眼は悽味《すごみ》を帯びて光りぬ。彼は 徐《おもむ》うに手を挙げてパリの市街を指し、沈痛の音声をもって叫びぬ、「嗚呼《ああ》パリよパリよ。牝鶏の雛を集むるがごとく、我が汝を集めんとせし こと幾何《いくばく》ぞや。しかも汝は常に我に聞かずして悪魔に聞き、日夜酒色の楽しみに酔うてその来るべき禍乱を知らず。憐《あわれ》むべきかな、パリ の市民」と。嗟嘆《さたん》これを久しうし、やがて切《き》り口上《こうじよう》をもって、「汝我《なんじ》の誰れなるかを知るか。我は二十世紀の予言者 東京帝国大学文科大学教授|建部遯吾《たてぺとんこ》なるぞ。昔予言者は蝗《いなご》と野蛮とを食いて活き、駱駝《らくだ》の毛衣を着て寒を防ぎしが、二 十世紀の予言者はパンとバタとを食とし、フロックコートを着するなり」と。かくの如く名乗りを上げ、やがて彼は例の罵倒癖《ばとうへき》を出し、東西古今 の英雄豪傑を十把一《じつばひと》からげにして罵倒し始めぬ。曰く、コ爾《なんじ》がかつて謳歌したりし英雄ナポレオンは今|何処《いずこ》にある、彼の 功業なるものはただこれ一|基《き》の凱旋門《がいせんもん》を値するのみにあらずや。爾《なんじ》がかつて古今の名主《めいしゆ》と仰ぎたるルイ十四世 の事業、今|何処《いずこ》にありや、その贏《もう》け得たるものはただこれアルサス・ローレンスに残せし不朽の怨恨《えんこん》のみにあらずや」と。気 焔万丈ほとんど停止する所を知らざらんとす。

(十三) すでにして第二の人影は、近《ちかづ》きぬ。彼は建部の学友小野塚喜平次なり。謹 慎忠直《きんしんちゆうちよく》にして、時に神経質《しんけいしつ》との評さえある彼は、建部の行動の余りに突飛《とつぴ》なるを憂えて、これを抑制すべ く来りしなり。彼は暫《しば》らく樹間に停立《ていりつ》して演説を聞き居たりしが、やがて突如《とつじよ》として出でて、建部のフロックコートの袖を捕 え、「おい建部、善《い》い加減《かげん》にして止《や》めないか、外聞《がいぶん》が悪い、それにこの夜、夜中巡査でも来たらどうするんだ」。建部これ を聞かず却て罵倒《ばとう》して曰く、「嗚呼《ああ》憐れなる小野塚よ。汝《なんじ》の行動の謹直なるは可なり、汝の心事の高潔なるは嘉《よみ》すべし。 されど汝の小心|翼《よくよく》々を如何《いかに》せん」。「おい何でも善《よ》いから早く止《や》めないか」と、小野塚しきりに建部の袖を引き、ここに 一場の「しころ曳《ぴ》き」を演じて、建部の古洋服はビリ、ビリと裂けぬ(由来建部大いに岳父谷将軍の勤倹尚武《きんけんしようぶ》の精神を体し、疎衣疎 食《そいそしよく》をもって甘んずる風あり。この洋服の破れたるは、すなわちこれを意味せるなり)。
 しかも彼少しも意に介せず、ますますその罵倒を続けぬ。たちまち嚠喨《りゆうりよう》たる天楽聞え、紫雲靉靆《しうんあいたい》とたなびくよと見る間 《ま》に、突如《とつじよ》天上より天降《あまくだ》れるは赭顔巻毛《しやがんまさげ》の渡辺|蝦蟇仙人《がませんにん》なり、左の方には矜羯羅童子《こ んがらどうじ》、法学士塩川三四郎を従え、右の方には制咤迦童子《せいたかどうじ》、法学士渡辺千冬を従え、建部の面前に来り、たちまち大|柄杓《ひしや く》をもって冷水一杯|襟《えり》に注《そそ》ぎ、「喝《かつ》」と叫ぶ建部|直《ただ》ちに悟道《こどう》し、心機一転《しんきいつてん》して恋愛を感 ずと云う所にて幕。

(十四) 世話物、中幕すでに了《おわ》りて、ついに大切浄瑠璃《おおぎりじようるり》に到達す。この大切狂言や我国 においても所作事《しよさごと》という一種の踊を見するをもってその主眼となせるがごとく、西劇またバレットという舞踏をもってその掉尾《とうび》の盛観 《せいかん》に資するを常とせり。これをもって各本の脚本においてもまた「後祭舞踏賑」という所作事《しよさごと》の一幕《いちまく》をもってその大切狂 言にあてたり。
 まず賑わしきヴァルズの曲にて幕開き、遥かに長蛇のごとき鉄道線路の書《か》き割《わ》り宜《よう》しく、ここイタリーの某停車場前の光景、ただ見る数 十人の群集、今や舞踏に熱中して、縦横無尽《じゆうおうむじん》に踊り狂える有様《ありさま》はなはだ盛んなり。やがて一声の汽笛《きてき》聞えて列車の 来着を告げ、群集に混じりて現われ出でしは、シルクハット、燕尾服《えんびふく》、カラーを耳の下まで高くし、向けそり返ったる日本紳士山田の三郎、わず かに十分間の停車時間を利用して便所へ行くべく下車したりし彼は、やがてその舞踏の囃《ドはや》しに何事ならんと出で来り、その鶯歌燕舞《おうかえんぷ》 の壮観に見とるるごと暫時《ざんじ》、やがて堪え切れず、直ちに一美人の手に接吻して、共に踊らんことを乞う。時に傍《かたわ》らより一ドイツ士官現われ 来り、これまた共に踊るべく美人を挑む。美人、山田の接吻に感じ、これと手を連ねて踊る。山田勝ち誇りたる得意の有様《ありさま》をもって四角八面に飛び 廻る。すでにして一声の汽笛《きてき》聞えて汽車の出発を報ず。山田大いに驚き美人の手を振《ふ》り放して場内に馳せ入る。美人その乱暴に呆《あき》れて 茫然《ぽうぜん》たり。この時汽車はすでに運動を始めて、山田ついに乗り後《おく》れたり。たまたま彼人に依頼せられたる金時計三個をカバンに入れて列車 中に置き忘れたることを覚り、倉皇狼狽《そうこうろうばい》直ちに打電して次《つ》ぎの停車場に問い合わす。返信来るに及んでついに紛失したる由《よし》 を聞き、深くその舞踏に現《うつつ》を抜《ぬか》したることを悔《く》ゆれども及ばず。大声を発してオイ、オイ泣き出す所にて幕。
 この大切狂言《おおぎりきようげん》やこれ山田のイタリー旅行中、金時計紛失事件として有名なる実際の出来事を仕組《しく》みたるなり。その彼が何のた めに中途に下車したるやは、人のこれを知るものなし。ただこれをもって彼の舞踏癖に連結したるものは、けだし作者|手腕《しゆわん》の存する所なり。その 山田の舞踏癖や同人間の名物として、彼の気障《きざ》性の一に数えらるるもの、大概《おおむね》かくの如し。要するに嫌味《いやみ》の多きことはハイカラ の第四条件にして、彼山田がいかに的確にこの条件を充《みた》せるやは、以上の事例をもって読者の大概《おおむね》理解したる所なるべし。

(十 五) もしそれハイカラ第五の条件たる薄《うすつ》ぺらなることに至っては、また多くこれを説くを要せざるべし。彼山田が自家の功名手柄《こうみようてが ら》を二丈四尺の手簡《しゆかん》に載せて、新聞社に投ずるがごとき、しかもその自負が自己の学才|抱負《ほうふ》にまで及べるに至りて、誰か彼が厚ぺら の人たるを信ぜんと欲すといえども得べけん。
 彼の書簡中もっとも滑稽《こつけい》なりしは、「大臣次官と直接談判のことのみ致居《いたしお》り」と云うの一句なりき。この言や善《よ》く彼が上輩貴 顕《じようはいきけん》の人をいかに尊敬するやを示すものなり。これ実に彼の争うべからざる美点なり。この故に彼が穂積陳重《ほづみのぶしげ》に向かって 随喜渇仰《ずいきかつこう》せるや、また常識以上なり。彼が講壇に立ちて、「国際私法を知らんと欲せば、我国の法例を知るべし。我国の法例を知らんと欲せ ば、法例改正案理由書を読むべし。これ吾輩《わがはい》が穂積先生の意を承《う》けて起草したるもの」と叫び、あるいは時に穂積の高徳を称賛せんがため に、穂積が彼に送れる書簡を朗読し、あるいは歌舞伎座の陪観《ばいかん》より、令息令嬢《れいそくれいじよう》の手を携《たずさ》えて散歩に出る等、その 忠勤《ちゆうきん》の至れる尽せる、実にこれ大学学生中|感嘆《かんたん》せざるもの一人だもなしという。
 しかれども彼は上輩に向かいて謙遜《けんそん》なるだけ、またその同輩以下に向かいて傲慢《こうまん》なり。人あり、かつて彼の無礼を怒り、その不尊のはなはだしきを面責《めんせき》す。彼|叩頭百拝弁《こうとうひやくはい》解して曰く、
 「英国人は鼻先|突合《つきあわ》せし際にても、未知の人にははなはだ冷淡なり。しかれども個人の友道において、英国人のごとき信義に厚き者は東西各国 にその比を見ざる所なり。余は英人を友とし、自ら英国紳士をもって任ずるもの。これ余がその尊大の譏《そしり》を辞せずして、滔《とうとう》々たる世人の 才子風を追わざる所以《ゆえん》なり。乞《こ》う願わくはこれを恕《じよ》せよ」と。これ実に彼の実際の口吻《こうふん》なり。英国紳士をもって任ずと云 い、世上の才子風を追わずと云い、もっとも趣味ある言辞なり。吾人は英国紳士の独立独行《どくりつどつこう》の精神を尊び、もっとも権門《けんもん》に阿 附《あふ》するを嫌うの風あるを聞けり。吾人は世上の才子なるものが、その上輩に追従軽薄《ついしようけいはく》を事として、同輩以下に向かいて傲慢《こ うまん》なるものある聞けり。而《しこう》して吾人《こじん》は未《いま》だ山田君の「ウスッペラ」なるこの種の行動が、所謂《いわゆる》英国紳士を学べ るもの、世上の才子風を追わざるものとなし得べきの道理《どうり》あるを聞かざるなり。
 最後に至りて、吾人は幾多の趣味多き材料供給者たりし山田君に多謝す。もし山田君なくばこの評論は恐らく竜頭《りゆうとう》にして蛇尾《だび》の譏《そ しり》を免れざりしなるべし。けだし山田君は所作事沢山《しよさごとたくさん》の人物、いわゆるパレットの花役者《はなやくしや》として、評論の大切狂言 《おおぎりきようげん》を務《つと》むべく、もっとも適役なりしなり。殊に吾人は君の社員のある者にあてたる書簡に向かいて多大の感謝の意を表するものな り。あるいは伝う、君は吾人をもって私信を公《おおやけ》にしたりとて他に怨言《えんげん》を放てりと。しかれども君はその手簡中に、材料として採用を乞 うと明言《めいげん》せらるるをもって、吾人はそのいかなる方法によりてこれを採用すべきやは、吾人の権利なりと信じたり。いわんや君は自らその社員に向 かいて一面の識なしと称せらるるをや。いわんやその書簡の新聞紙の材料を載せて、新聞社|宛《あて》に送られたるものなるをや。よしまた仮《かり》にこれ をもって純粋の私信なりとするも、吾人はかくの如き礼を失したる私信は、その何人《なんぴと》よりするも読者に向かいて出せしは、秘密にすべき義務を感ぜ ざるのみならず、却《かえつ》て没常識の好適例として、これを天下に発表するの社会のためにも、彼のためにも、有益なるを感ずるものなり。最後においてな お重ねて山田君に向かいて最高の敬意を表す。                (この項完)

山田対仁井田
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  左の書面は京都大学の谷本富氏より我社の北鴎へ郵寄したるものに御座候処《ござそうろうところ》、斬馬剣禅《ざんばけんぜん》目下《もつか》地方に客遊中 に有之《これあり》、直《ただ》ちにこれを示すに由《よし》なく候間《そうろうあいだ》、不取敢《とりあえず》登載《とうさい》して『東西両京の大学』を 読む者に示し、剣禅にして谷本氏に答うべき所あれば、それは後日に譲《ゆず》り候《そうろう》事《こと》と致候《いたしそうろう》。
                                  記者

      『東西両京の大学』について         谷本京都帝国大学教授
拝 敬炎暑《はいけいえんしよ》の節|愈御清栄奉《いよいよごせいえいよろこびた》 賀《てまつりそ》 候読《うろう》売新聞毎日|面白《おもしろ》く拝見| 致居候尚一層《いたしおりそうろうなおいつそう》改良希望に|不堪候《たえずそうろう》。偖《さて》別紙斬馬剣禅君宛|認《したた》め候御手渡相成度奉 《そうろうおてわたしあいなりたくねがいたて》 願《まつりそ》 候《うろう》。同君の都合《つこう》にて読売紙上に
|公《おおやけ》にせられ候は幸甚《こうじん》と存《ぞんじそ》 候《うろう》。登張竹風《とばりちくふう》君とはその後|御往来成居候哉《こおうらいな りおりそうろうか》。不相変《あいかわらず》大気焔の由《よし》伝聞致候《でんぶんいたしそうろう》。小生は意気銷沈《いきしようちん》唯々《ただただ》 山紫水明境裡《さんしすいめいきようり》に起臥致居候《きがいたしおりそうろう》。御憐笑被下度《これんしようくだされたく》、御依頼旁《こいらいかたが た》近況御報迄如是《かくのごとくきんきようおしらせまで》。                      富
   七月十九日
  足立雅兄硯下
| 粛啓未接謦咳候得共《しゆくけいいまだけいがいにせつせずそうらえども》、介旧知一書拝呈仕候《きゆうちをかいしていつしよはいていつかまつりそうろ う》。偖《さて》、本年は気候|兎角《とかく》不順の折柄《おりがら》、筆硯《ひつけん》愈々《いよいよ》御清栄《ごせいえい》奉賀候《よろこびたてまつ りそうろう》。別而《わけても》読売紙上連載|成居候《なりおりそうろう》『東西両京の大学』は、毎夕取る手遅しと披閲|至極《しごく》面白く感候余《か んじそうろう》り、数々反復熟読|致居候《いたしおりそうろう》。
 しかる処《ところ》過日来、山田、仁井田両博士御対評の項中、たまたま小生著作の事に及《およ》ばされ候《そうろう》は些《いささ》か迷惑に御座候《ご ざそうろう》。勿論《もちろん》同脚本様の事は事実無根《じじつむこん》とは打消申難候得共《うちけしもうしがたくそうらえども》、始中終|幾多《いく た》の相違有之候様被存候《そういこれありそうろうようぞんじられそうろう》。確《しか》と記憶は不致候得共《いたさずそうらえども》、強いて回想すれ ば、先年スペインより再度パリに立寄候節《たちよりそうろうせつ》の事にもや有之候《これありそうら》わん。一夕、建部、山田、樋口等当時同地在学の諸君 子と大学附近のカフェーに落合い、談笑歓晤《だんしようかんこ》の折柄、色々珍談異聞傍聴|致候侭《いたしそうろうまま》、性来の好劇癖より、ふとこれは 一つ芝居に仕組まれるようだと申候いつつ即席にてこうもあろうか、むしろ日本旧劇風に概略の仕組を話合い、一場の笑草《わらいぐさ》と致候丈《いたしそう ろうだけ》の事にて、西劇研究の応用など申候鹿爪《もうしそうろうしかつめ》らしき訳《わけ》には毛頭無之《もうとうこれなく》、また脚本の著作のと可被 申次第《もうさるべきしだい》の者《もの》には、さらに無之候《これなくそうろう》。樋口君短刀持参の事、建部君|心機一転《しんきいつてん》の事、山田 君高襟の舞踏の事などは、成程《なるほど》その中に含まれ候様朧気《そうろうようおぼろげ》に記憶|致居候得共《いたしおりそうらえども》、その外《ほ か》登場の人物、 並科白《ならびにせりふ》等はさらに想浮《おもいうか》び不申候《もうさずそうろう》。筧君、小野塚君など果して場中の人たりしや疑 《うたが》わし。山田君の事とても金時計紛失の話などは、実は今度貴紙上にて始めて承知致候様《しようちいたしそうろうよう》の次第《しだい》にて、原作 (?)は単に山田君を主公とせる賑《にぎにぎ》々敷《しき》パリの夜景を写出せるに不過《すぎず》、ただ極めて無邪気の物なりし様覚申疾《ようおぼえもう しそうろう》。
 かくの如く著作者と御指呼の小生自身にすら、今日は全然|忘却致居候程《ぼうきやくいたしおりそうろうほど》なるを何方《いずこ》よりか御伝聞相成《ご でんぶんあいなり》、如此《かくのごとく》面白く御書|綴《つづ》りなされ候者《そうろうは》、畢竟《ひつきよう》貴下筆端の魔力とも可謂《いうべき》か と深く感入候《かんじいりそうろう》。但しあるいは他に小生の名を冒して構案せらるる才子も有之候《これありそうろう》にて、貴下に一個の好材料を供給致 され候事《そうろうこよ》も有之候哉《これありそうろうや》。何はともあれ、無芸無能の小生をもってフランス修業の一流作者のように御吹聴被下候《ごふい ちようくだされそうらい》ては、誠に汗顔不堪候間《かんがんにたえずそうろうあいだ》、念のため右|顛末《てんまつ》達貴聴置度如此御座候《きちようにた つしおきたくかくのごとくござそうろう》。尚《なお》演劇改良の事等につきては、多少愚存も有之候得共《これありそうらえども》、弄者徐期他年待貴意可申 候《それはおもむろにたねんをきしてきいをまちもうすべくそうろう》。時下|三伏炎暑《さんぷくえんしよ》の候にも相成候《あいなりそうら》わばいよいよ 御自愛専一たるべく奉願候《ねがいたてまつりそうろう》。敬具
   七月十八日夜
                             在京都  谷本梨庵
  斬馬検禅様机下


法科大学結論

(一)  吾人は百有余編の長文を草し、読者|欠伸《あくび》の間に、ついに茲《ここ》に法科大学結論に到達せることを喜ぶものなり。そのこれを喜ぶもの豈啻《あ にただ》に読者|倦厭《けんえん》の情を慰《なぐさ》め得るが為《ため》のみならんや。また実にこの長編に対する幾多《いくた》社会の反響を評論し得て、 克《よ》く群盲《ぐんもう》の迷誤を啓《ひら》き得《う》るの機会に達せしが故なり。
 その始め、吾人がこの文を草するに当りて以為《おもえ》らく、文を舞わし、筆を弄《ろう》していたずらに読者の好尚《こうしよう》に投ずるをのみ。これ 豈操觚者《あにそうこしや》の本懐《ほんかい》ならんや。新聞紙は一の大学なり、文筆は一の精神的事業なり、もって社界を教育すべく、もって積弊刷新《せ きへいさつしん》の事を行うべしと。ここにおいて東西両京の大学を比較論評するに当りても、その年来の宿題たる東京法科大学学風の刷新と制度の改善とは、 大声|叱呼《しつこ》大いに改革党に左袒《さたん》して、直ちに実行の途につかしめんことを期したり。しかもその内部の情況を精査するに及んで、積弊の極 《さわま》る所|到底尋常《とうていじんじよう》の手段をもってしてその目的を達すべからざるを発見し、ここに革命的非常手段を行うの必要を感ぜり。ここ において学風を蠹毒《とどく》し、改革を阻害《そがい》するものに向かいては、遠慮なく爆裂弾を投じて、衆姦《しゆうかん》を一掃するに想到《そうとう》 し、左顧右晒《さこうぺん》の後《のち》、ついに断然《だんぜん》これを決行するに=疋せり。事のここに至りし順序なるものは、もとより上のごとく簡単な りといえども、そのこれが実行の任に当らんと欲せし幾多の社員は、自らこれが犠牲となりて多くの敵を求むることを覚悟せり。就中《なかんずく》そのある者 のごときは断然《だんぜん》筆を拗《おつ》て志を操觚《そうこ》の社会に絶たんと欲せり。しかれども義《ぎ》を見てせざるは勇《ゆう》なきなり。大義は克 《よ》く親を滅すと云わずや。小|怨《えん》を怖《おそ》れ、小利を棄る能《あた》わざるは男子のことにあらず。私恩に泥《なず》み、私情に拘《こだ》わ るがごときは、決して公人の態度にあらざるなり。涙を振《ふる》って馬謖《ばしよく》を斬《き》るは、由来《ゆらい》この種の事業に到底止《とうていや》 むことを得ざることに属すと。ここに同人相論じて、議を邁往《まいおう》直前に一決せり。
 すでに革命的事業なる、小害を残し、小毒も流すがごときは、素《もと》よりその期する所、要はただ改革《カしカく》の目的を貫徹して、自今《じこん》天 下幾万の雋秀《しゆんしゆう》をして円満にその才を伸べしむるにあり。もしその大切をだに収むることを得ば、その細瑾《さいきん》を顧みざりし批難はもと より吾人の甘受せんと欲せし所、これ吾人が献身の本義ここに存し、犠牲の大道自らその中にありと確信したりしが故なり。
 かくの如くにして動機の善をもって道徳的行為の要素の一なりとなさば、吾人はもとより深くこの点において、俯仰《ふぎよう》天地に恥じざるものあるを信 ず。かのある文芸雑誌の一記者が、吾人に「良心の存否を疑う」と云いしがごときは、もっとも憐《あわれ》むべき近視眼的見解《きんしがんてきけんかい》な り。彼は文部省と態度を一にして、哲学館事件を再演するを辞せざる底《てい》の没分暁漢《ぽつぶんぎようかん》なり。彼が真神の大道と悔改を説くがごと き、ほとんど噴飯《ふんばん》を値すと云うべし。

 (二) 動機の善良はすでに主観的良心の満足を買うにおいて充分なり。吾人はそれ以上 においてまた多く弁解せんことを欲せず。また弁解の必要を見ざるなり。何となれば自ら俯仰《ふぎよう》して天地に恥じるなくんば世のいわゆる毀誉《きよ》 と褒貶《ほうへん》とのごとき、また眼中置くの要なければなり。しかれども新聞紙は公共的事業なり、これが行動に関する誤解は、直接に風教《ふうきよう》 に関する大なるものなくんばあらず。故にその行動の遺徳的判断に要する材料は、及《およ》ぶだけこれを公《おおやけ》にするの必要を見るものにして、これ 吾人が動機の良否以外また別に吾人の評論が収め得たる効果の幾分を、社会に発表するの義務ありとなす所以《ゆえん》なり。吾人をもっていたずらに功を衒 《てら》うものとなすなかれ。吾人をもっていたずらに名を好むものとなすなかれ。ただこれ已《や》むを得ざるに出るのみ。
 その始め、吾人は法科大学を論ずるに当りて、東京大学の改革をもって至要の目的となし、これに向かいて全力を注《そそ》がんことを欲せり。故にかの京都 大学の改革のごときは、もとよりさまで眼中に措《お》きしにあらず。ただ積弊|纏綿《てんめん》の東京大学は、これを攻撃するにおいて改善の実を挙げしめ 得べく、新進気鋭《しんしんきえい》の京都大学はこれを称賛するにおいて、発達の途につかしめ得べしと信じたり。故に東京大学に向かいては、大いにその欠 陥を指摘するに全力を用い、京都大学に向かいては、その美点を称揚するに勉めたり。而《しこう》してその結果は如何《いかん》、老大為《ろうだいな》すな かりし東京大学も、姑息《こそく》ながらも重要なる三点においてす
こぶる見るべきの改革を実行し、比較的善良なりし京都大学は、さらに一大改革を行うてますます錦上花《きんじよう》を添ゆるの好果を見たり。吾人はこれを もって吾人単独の力なりと自負することを欲せず。恐らくは改革の機運《きうん》ようやく熟して、ついにかくの如くならしめたるに因《よ》るものならん。し かれどもその機運を促してついに今日に到達せしめたるもの、また吾人|痛論《つうろん》の功《こう》与って力ありとなすも、決して過当の自負にあらざるべ きを信ず。
 かの文部省が東京法科大学に下すに、学制改革の諮問案《しもんあん》をもってし、依《よ》って大いに革新を促せしもの吾人|切論《せつろん》の後にあら ずや。かの京都大学教授が委員を挙げて、学制改革の調査をなし、直ちに満場一致をもってその改正案を通過したるもの、吾人評論の後にあらずや。いわんやそ の両大学教授会における各教授の態度や、すこぶる吾人痛論の効果を疑わしめざるものあり。
 東京法科教授会において改革案議題に上るや、まず科目制度の試験制をもって従来の各科連帯主義に代えんと主張したるものは、従来保守主義の張本たりし穂 積陳重《ほづみのぶしげ》なり。これ彼に向かいては多大の進歩なり、多大の悔悛《かいしゆん》なり。吾人はこれをもって、吾人攻撃の実効ありし的確《てき かく》なる実例の一となすを躊躇《ちゆうちよ》せず。しかれどもこの提案は不幸にしてかの岡野敬次郎《おかのけいじろう》の足弱論に依《よ》りて説破《せ つば》せられたり。足弱論とは何ぞや。曰く、一級の中にてある二、三科目の落第点を取るものは即ちこれその級中における足弱なるものなり。この足弱なるも のをして、次の学年においてその学年全体の科目以外また前年落第の二、三科目をも負担せしむるとなさば、これ足弱なるものをしてますます過重の荷物を負わ しむるものにして、ついに煩《わずらい》を他科目にまで及ぼすの結果を見るなきを保せず、と。これ吾人が取るに足らずとなすの姑息《こそく》論なり。何と なれば落第科目数の多少により、煩を他の科目に及《およ》ぼすの憂《うれい》なくして、充分に及第《きゆうだい》し得べきや否やは、学生自ら判断し得べき 所、もし過重の負担なりと信ぜば、彼等他の幾分の科目を後の試験に譲りて、徐《おもむ》うに長久の計をなすべければなり。いわんや四学年卒業の東京法科大 学は三学年卒業の京都大学に比して、遥かにその科目の分配において自由の範囲大なるをや。かくの如き見|易《やす》きの道理あるにかかわらず、彼穂積がつ いにその科目試験制度案を撤回《てつかい》するの醜態を演ずるに至りては、まことにこれ薄志弱行《はくしじやつこう》もまたはなはだしというべし。その他 山田三郎のごとき饒舌家《じようぜつか》ありて、常に改革の論議を阻停《そてい》し、数十回の会合の後、わずかにその議決を見たるものは、まことにこれ一 時を糊塗《こと》するに過ぎざる鵺的姑息案《ぬえてきこそくあん》に過ぎざるなり。

(三) かくの如き煩悶苦悩《はんもんくのう》の余り 成《な》りたる東京法科大学学制改革案なるものは、はなはだ姑息なる小刀細工《こがたなざいく》なり。彼等の改革案なるものは、全くその形式を改めて精神 を改めざるものなり。もしかくの如き改革なりせば、幾度これを実行するとも、東京大学は到底大学らしき大学たることを得ざるべし。そのいわゆる改革案とは 何ぞや曰く、
 一、落第生は次学年試験において、その前学年試験は六十点以下を得たりし科目のみについて試問せらるべきものとす。
 二、やむをえざる事情により学年試験を受けざりし学生は、同年九月において受験し得。
 三、従来の法律科においては左の四科目中その二を撰んで学習し得。
  ω、ローマ法 ②、比較法制史 ㈹、破産法 ω、経済学
 政治科においては左の八科目中その四を撰んで学習し得。
  ω、法理学 ②、比較法制史 ⑧、国際私法 紛、政治史 ⑤、経済史 ㈲、経済学史
  ω、法制史 ㈹、外交史
   第一の改正案について彼等は以為《おもえ》らく、これ科目試験の精神を採用して、その弊害《へいがい》たる足弱なるものを救助し得るの良法なりと。しか れどもこれ未だ科目試験制度の精神を理解し得ざるものなり・この制度の目的とする所は・学生がいたずらに試験を眼中に轡かずして、心静かに実力養成を期し 得るにあり、すなわちその進級し得るや否やに心を労せずして、各科の学習に全力を用い得るにあり。吾人が従来東京法科大学の欠点とする所は、必ずしも学生 の負担過重なりとなすよりは、学生がその進級の如何《いかん》に心を労して、試験のために勉強するの結果に陥り、法的修練、実力の養成をこれ勉めずして、 法律学を歴史、地理を学習すると同じく、いたずらに言辞の暗誦をこれ事とするにありと云うにあり。故に東京法科大学にしてその学制を改めんとならば、まず この点に心を致《いた》し、学生をして進級の如何《いかん》を念頭《ねんとう》より去らしめ、専《もつば》ら実力の養成に心を注がしむるの策に出でざるべ からず。すなわちこの目的に向かいては、科目試験制度を採用するの外《ほか》、また適当の方策なきなり。しかるに彼等の事理《じり》を解せざるや科目試験 の形骸《けいがい》を採用しながらその制度の精神を没却し、一、二科目の落第科目を次の学年試験に受験せしむるがために、なお一年間の在学を強《し》ゆる がごとき、かの学生をして年限の後《おく》るるを恐るる結果、小心|翼《よくよく》々として試験のために勉強せしむるの結果に陥るや、
  従来の制度と何の選ぶ所なきなり。要するにこの改革案は従来落第に次ぐに落第をもってし、到底《とうてい》卒業の見込《みこみ》なかりし微力なる学生 の卒業と進級とを確実ならしめたるの外《ほか》、またほとんど大なる利益なきに似たり。吾人はかくの如き姑息《こそく》の改正案を見て、転《うた》た東京 大学学制改革の前途の遼遠《りようえん》なるを嘆ぜずんばあらざるなり。
 もしこの改革が微力なる学生の進級を容易ならしめんとの精神に出るとならば、たとえ科目試験制度とは相去るますます遠しといえども、むしろ梅謙次郎《う めけんじろう》の提案たる再試験制度を採用せんに如《し》かず。何となれば、この案によれば落第生の六十点以下の科目を九月において再試問に付すとの制度 なれば、これその落第科目を次学年に試問せらるるに比すれば、学生にとりては大なる利益なればなり。ただこの案が再試験に落第せしものに向かいては、次ぎ の学年試験に再び全科の試験を課するの科目試験制度の精神を没却するものなりというも、もし再試験に落第することが予想し得ば、改正案においても一、二科 目のために数度落第して、これがために数年在学期を永うするの結果を見ることありとせざるべからず。要するにこの改正案は、科目試験制度の形骸《けいが い》を学んでその精神を得ず、かえって再試験制度にも劣れる程《ほど》の悪結果を来すべき半熟の改正案なりとせざるべからず。
 第二は事情|已《や》むを得ざるもののために、試験を九月に延期するの制度にして、もとより従来のごとき一年一回の定日試験に比すれば、遥かに学生のた めに便利なるや言うを俟《ま》たず。しかれども卑劣《ひれつ》なる学生をして教場に出でて、その試験問題の難易を見て延期不延期を決せしむるがごとき弊風 《へいふう》を生ぜしむるに至りしは、頗《すこぶ》る慨嘆《がいたん》すべきことに属す。もし断然かの科目試験制度を採用するに至りしならば、かくの如き 弊害《へいがい》なくして止《や》むことを得たりしならん。嗚呼《ああ》常に天下の大事を誤るものは因循姑息《いんじゆんこそく》の弥縫《びほう》策なる かな。
 第三、これすでに内議一定して近日まさに発表せられんとするものにして、すなわち選択科目の制度によりて学生の負担を軽減せんとするものなり(法律科に おいて二科目、政治科において四科目)。これまた東京大学にしては一大|英断《えいだん》なり。殊に各教授がその自家の受持科目について選択科目たるを承 諾せしがごとき、吾人痛論の甲斐《かい》ありしとして窃《ひそか》に快哉《かいさい》を叫ばざるを得ざるなり。
 要するにこの改正案は未《いま》だ東京法科大学の根本的欠点たる、学生の実力養成、法的|修練《しゆうれん》を主とせざる点において、少しも救治《きゆ うじ》の策を立てたりと云うべからずして、京都大学の美制を去ることはなはだ遠しと云わざるべからず。そのこれ等の諸問題を解決して、東京法科大学をして 大学らしき大学たらしめ得べきもの、ただそれ科目試験制度の採用にあるか。
 もしそれ演習科の制度、論文、試験、教授の方法等、学生をして筆記暗誦的《ひつきあんしようてき》、注入的、小学校的の教育方法を打破すべきの制度に至 りては、未《いま》だ少しも東京大学の企画せざる所、吾人はついに東京法科大学の改革事業の前途はなはだ遼遠《りようえん》なるを感ずるものなりといえど も、しかもこの度《たび》の改革たるや大いに従来の因循《いんじゆん》に比して一大|英断《えいだん》たるはまた言うを俟《ま》たざる所なり。

(四) もしそれ京都法科大学の改革に至りては、さらに大いに見るべきものあり。今その主眼とする所を求むれば、大概《おおむね》左の四点に帰着すべきもののごとし。
 一、最短在学期を三ヵ年としたること。
 二、法科大学を四部に分かち、学生に向かいてその撰択を一任したること。
 三、各部に課する科目の数を減少し、科目の授業時数は却《かえ》ってこれを増加したること。
 四、試問の及第成績を甲乙丙丁に分かちたること。
  第一、最短在学期を三ヵ年としたること、については、東京法科大学の山田三郎は、その主幹する法学協会雑誌に拠《より》て、これをもって学生の実力を減ず るものとして、冷評至らざるものなかりしといえども、吾人はこれに向かいて全然反対の意見を持するものなり。しかり、もし修業年限を一定して、制規の年数 在学したるものは、あたかも心太《ところてん》を押出すごとく、毎年形式的新法学士を製造するをもって能事《のうじ》これ了《おわ》れりとなす所の東京法 科大学において、もし四ヵ年の修業年限を三ヵ年に短縮せば、あるいは卒業生の学力を減殺《げんさい》するの患《へつれい》もあらん。しかれども京都法科大 学は科目試験制度を採用するものにして、決して学生の在学修業期を一定せざるなり。
 その四ヵ年と云い、三ヵ年というも、畢竟《ひつきよう》これ最短学期を定めしに過ぎず、もし三ヵ年の改正期をもってして、実力|未《いま》だ充分なりと 信ぜざる学生は、宜《よう》しく科目の分配に注意して、四ヵ年在学するも可なり。また五ヵ年在学するも可ならん。要するにこの在学最短期の改正をもって、 絶対に卒業生の実力を減少せしむるものとなすは、未《いま》だ科目試験制度の精神を解せざる一知半解《いつちはんかい》の論なり。殊に従来の実験に徴する に、東京法科大学における第四年級なるものは、わずかに国際私法、破産法、刑事訴訟法、商法の残部等はなはだ重要ならざる科目を研究するに過ぎず、しかも その学年試験が五月に行わるるが故に、授業は大概《おおむね》九月中旬に始りて三月下旬において結了せらるるの結果を見たり。すなわち知る、この第四年級 なるものは、三、四の科目を七ヵ月間研究せしむるがために置かるるものにして、必ずしももって絶対に学生の卒業期を一ヵ年延期せしむるを必要なりとなし得 べきものにあらず。故にもし巧みに科目の配列を行い、学生の向後の方針に応じて、不必要の負担を減ずることだになさば、三ヵ年にして東京法科大学の形式 的、注入的法学者を作るにおいて、さまで困難を感ぜざるべし。
 要するに法科卒業者の実力の大小は、決して多く学び、多く聞きたるや否やのその分量をもって測るべきものにあらずして、いかに学び、いかに教えられしや のその研究の方法によりて決せらるべき問題なり。もし京都法科大学のごとき学生の自由討究を奨励《しようれい》し、法的修練をなさしむるをもってその主眼 となすの制度をもってせば、吾人は三ヵ年の修学期をもってして、優《ゆう》に東京法科大学の四ヵ年修業者に拮抗《きつこう》し得べきを信ずるものなり。百 論は実に一証に如《し》かず、昨年京都大学の第三年級を卒業して高等文官試験を受けたる一学生あり。彼もとより京都法科大学の一|尤物《ゆうぶつ》たりし に相違なしといえども、克く東京の四ヵ年修業者と角逐《かくちく》して(しかも試験委員は東京大学の教授なり)、優《ゆう》に登第《とうだい》することを 得たりしなり。この一事はもって四年論者の根拠を粉砕《ふんさい》するに足る。

(五)第二の京都法科大学の改革点たる、法科を分って四部 となし、学生に向かいてその撰択の自由を許したることに至りては、またさらに論ずべき所はなはだ多し。そのいわゆる四部とは何ぞや。曰く、ω、司法科  ②、法学科 ㈹、行政科 ω、経済科これなり。今試みに科目の分配を表示すれば左のごとし。
 ω、司法科
 憲法、刑法、行政法総論、民法、商法、刑事訴訟法、民事訴訟法、破産法、国際公法、国際私法、経済学総論、外国私法(英独仏の中《もつち》、その一を選ぶ)
 ②、法学科
 司法科の外国法に代うるー7左の四科目をもってす。
 ローマ法、法制史、比較法制史、法理学
 ㈹、行政科
 憲法、刑法総論、行政法、民法、商法、国際公私法、経済学全体、財政学、統計学、外国公法、政治学、政治史、国法学
 ω、経済科
 憲法、刑法総論、行政法総論、民法、商法、国際公法、経済学総論、同各論、財政学、統計学、国法学、経済学史、経済史
  かくの如くにして、京都法科大学は従来の政治科、法律科の二部制度を廃して、これに代うるに上の四部制度をもってしたり。その改革の主眼とする所は、学生 の不必要なる負担を減じて、その研究を一点に集めしめ、いわゆる注入的、皮相的《ひそうてき》研究の弊《へい》に陥《おちい》らず大いに開発的、自由討究 的たらしめ、併《あわ》せて三年の短期をもってしても、善くその研究の実効を収《おさ》め得しめんとするにあり。これ三年制度に伴う所の流弊《りゆうへ い》たる研究の浅薄《せんばく》に陥ることを防ぐにおいては、もっとも適当の方法なり。
 しかるにこれに対しては、例の山田三郎は反対の意志を表白して曰く、「法科大学は偏狭《へんきよう》なる専門学者を製造するをもって目的とするものにあ らずして、むしろ法律経済に関する普通の学識を授け、将来あるいは実業家となり、あるいは学理研究者となるに堪能《たんのう》なる素養《そよう》を完《ま つと》うするをもってその本分《ほんぷん》とせざるべからざるが故に、かくの如き細別を設ることは、果して大学教育の目的に適すべきや否や、はなはだ疑い なき能《あた》わず」と。この駁論《ばくろん》はまたこれ改正案の変化妙用を解せざるのはなはだしきものなり。京都法科大学はその科目試験制度に依《よ》 りて、学生の在学年限の伸縮を自在ならしめたると同じく、またこの改正案においても、学生が自己の志望により、上に列記せる各科分配科目以外のものを兼修 して、これを受験することを得。故にもし学生にして、京都法科大学において、東京法科大学の法律科の課する科目をことごとく学習せんと欲せば、また善くそ の目的を達することを得べし。しかも東京法科大学におけると同じく、四ヵ年の年限をその深奥《しんおう》なる研究に費すことをも、克くすることを得るな り。否《いな》、もし篤志《とくし》の学生あらば、政治科法律科の全科目を併《あわ》せ修むることをもなし得べし。
 要するに京都法科大学は、学生中初めよりその処世の方向を定めて進むものと、未《いま》だこれを定めずして、ただ法律経済の一般的学識を得て、しかる後 《のち》その方面を定め、あるいは学理研究のことに従わんと欲するものの二種あることを予見せり。これをもってこの第一種のものに向かいては、もとより 四ヵ年の長期在学と不必要の負担を強《し》ゆるの何の利益なきを見て、これに向かいては三ヵ年の在学と専門的智識だけを授くるをもって満足したり。しかれ どもその第二種の学生に向かいては、彼等が該博《がいはく》の智識に由《より》て徐《おもむ》うにその大成を期するを妨げざるをもって、これに向かいても またその方途を開きたるなり。

(六) かつそれこの京都法科大学改正案の第二点が、いかに第二種の学生の輩出《はいしゆつ》を希求せしや は、その部名を廃したるに徴して明らかなり。従来の法科大学は東西両京を通じて、共に政治科法律科の二部に分けたり。しかるにこの改正案は、全くかくの如 き名称を廃して、ただ四種の試問を学生に課することとなせり。吾人が前回これを司法科、法学科、行政科、経済科と称したるものは、仮《かり》にこれ等の名 称を付して、全く読者の了解に便にしたるに過ぎず、その実際においては、かくの如き科名なきのみならず、学生をしてその試問に必要なる科目以外の科目を研 究し得るの便宜《ぺんぎ》を充分に与え、もって全然学科の分立を否認したり。これをもって学生は初め司法科に志すも、もし自家の都合により、行政科に転ず るにおいてはなはだ自由たるのみならず、この両科の全学科を併《あわ》せ学ぶことをも得るなり。要するに改正案がその試問科目数を減じたるは、外見はなは だ学生を専門的に傾かしむるがごとしといえども、実際においては、従来よりは遥かに学生の自由討究を許し、彼等をして肆《ほしいまま》にその研究的欲望を 満足せしめ得べきの美点を得たりとせざるべからず。かの山田の謬見《びゆうけん》のごときは、全く東京法科大学の束縛的《そくばくてき》制度の思想により て、京都大学の良制を曲解《きよつかい》したるのいたす所なり。
 もしそれ山田が改正案の法学科に外国法の試問科目なきことをもって、外国法を学ばざる学生を養成するものなりとなすの論に至りては、はなはだしき浅薄 《せんばく》の見解なりとせざるべからず。何となれば京都法科大学はその参考書の貸出において、その演習科制度において、その論文試験において、その議義 に立法例を列挙《れつきよ》するにおいて、学生の外国書を読み外国法を研究するの機会ははなはだ多し。これを東京法科大学の学生が、その外国語学の力足ら ざるがために、外国教師の講義に出席するものわずかに百分の五、六に過ぎず、その他はただ過多き講義印刷物に依《よ》りて、ようやく試験を誤魔化《ごま か》すに過ぎざるに比して、決して遜色《そんしよく》ありとなすべからず。もし外国法の科目なきが故に、外国法を研究するの機会なしとせば、従来の京都の 政治科、東西両京の外国教師なき各分科大学においては、また外国書を読むの機会なきものと云わざるべからず。もし外国書を読むも、外国法を知る能《あた》 わずと云うの論理が成立せざる限り、吾人は到底《とうてい》論者の言の至当なるを認識する能《あた》わざるものなり。
 第三点において各部に課する科目の数を減じ、各科目の授業時数は、これを総計において増加せしめたる改正案の要旨は、吾人多くはこれを前回において論述 せり。すなわち京都大学は学生の卒業後の目的に従いて、不必要なる科目の節略を実行し、もってその学生の負担を軽くして、却《かえつ》て実力を養成せしめ んことを期せり。その結果としては、各科目の授業時数は割合に増加したるにかかわらず、毎週における授業時数は多く二十時間内外に減少し、学生をして自由 に他の科目を聴講し、または演習科および参考書について自ら研究をなすの余暇《よか》を与えたり。これ吾人が新改正案をもって自由討究的、開発教育的なり となす所以《ゆえん》なり。

(七) 第四、京都法科大学改正案が試問の及第成績を、甲乙丙丁に分かちたることは、その精神法律政治の学術 においては、理化算数等の学問におけるがごとく、その試験成績を数字的に算定する能《あた》わずと云うにあり。これに対してもまた山田三郎は、その冷評的 の筆を振うて曰く、「試験の目的が、単に及第落第を定むるにありとせば、甲乙丙丁の評価もまた無要なり」と。しかれどもこれ未《いま》だ改正案の精神を理 解せざるものなり。
 けだし京都大学制度の精神は、試験成績を発表せざるにあり。京都大学はむしろ学生を遇するに大人君子《たいじんくんし》をもってす。大学は学生が自己の 意力にもとついて、研究に力を致すを欲す。すなわち試験成績の良否に左右せられて、自己の勉否を分かつがごときは、むしろ大学教育の精神に反するものな り。これをもって法科以外の分科においては、絶対にその成績を発表せざるを原則となせり。これはなはだ至当の見解なり。しかれども学生及びその父兄の見 識、未《いま》だはなはだ幼稚なる今日に在りては、多少の流弊《りゆヨつへい》のこれに伴うものあるは、もとよりやむを得ざることに属す。すなわち学生の その科目試験制度の特長を利用して、最短在学期以上勉学せんと欲するものあるも、その成績を発表せざるがために、その長期の在学が、あるいは落第《らぐだ い》して止《や》むなく在学するものと誤解せられんことを恐れて、卒業を急ぐの結果に陥ることなしというべからず。また父兄もその長期在学を落第の結果な りとして、学費の支出を拒《こば》みたるの事例もまたなきにあらざるなり。これ等の痛弊《つうへい》を除かんと欲せば、試験成績の発表も必ずしも不必要の ことにあらず。しかも数字的に等級を設るは、法科の学術の精神に反す、これを甲乙丙丁に分かつ、決して不可なるを見ざるなり。
 しかれども吾人の理想は試験を全廃して、その便否を全く学生の自由討究心に訴うるにあり。これに向かいては試験成績の不発表はますます理想に近きものな り。これを甲乙丙丁に分かって発表するは、点数的に席順を発表せる改正前の制度よりは、やや理想に近きものにして、かの点数自身を発表する東京法科大学に 比すれば、もとより相去ることはなはだ遠きものと云わざるべからず。
 吾人はここにおいて東西両法科大学改革の要旨を論評し終れり。もとより吾人はこの改革をもって充分に素志《そし》を貫き得たりとなすものにあらず。否 《いな》、かえって吾人は多少|大山《たいざん》崩れて|腿鼠出《けいそい》ずるの感なきにあらず。しかも東京法科大学のごとき因循《いんじゆん》なすな きの大学をして、かくの如き改革をなさしめたるもの、吾人隠にもって快哉《かいさい》を叫ぶを禁ずる能《あたわ》ざるものなり。しかれども改革の前途《ぜ んと》はなお未《いま》だはなはだ遼遠《りようえん》なり。東京法科大学が科目試験制度を採用せざる限り、吾人は今後決して論議の事を絶たざるべし。ただ 今日においては、吾人はまず此辺《このへん》において評論の筆を止んと欲つるなり。
 最後において吾人はかの「明治法学」紙上、「法科大学の三幅対」なる論文につきて、一言せんことを欲す。吾人はこの論者がいかにその心事を糊塗《こと》 せんと欲するとも、到底《とうてい》穂積に対する幇間的《ほうかんてき》弁護たるを失わず、しかもその弁護や頗《すこぶ》る巧妙なり。これをもって人往々 論者をもって法学士にして弁護士なりとなせり。吾人はこの種の心事の公明ならざる論者に向かいて、余り多くの注意を払う能《あた》わず。吾人はこの種の人 物に向かいては、わずかに下の一言をもってその反省を促すをもって充分なりとなすものなり。曰く、ある大学出身の弁護士の言う所によれば、彼の知り得る限 りにおいて、独立独行の弁護士という職業を有せる法学士にして、善《よ》く穂積の邸宅に出入し、常に諛辞《ゆじ》を呈し、その所信と反対なる学説に雷同 《らいどう》することをすら敢《あえ》てし得たるものは、かの有名なる朝倉外茂鉄一人なりしと。吾人は実にこれを論者のために戦慄《せんりつ》するを禁ず る能《あた》わず。もしそれ論者にして、ますます主張を確守せんとならば、吾人は優《ゆう》にこれを説破《せつば》するに足る、なお幾多の材料を有す。た だ恐る、もしかくのごとくんば、折角《せつかく》その幇間的《ほうかんてき》弁護もかえって藪蛇《やぶへび》に終るなからんことを。

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